最近の中学入試の適性検査型及び社会科記述問題では、従来の枠組みに収まらない意欲的な出題が目立ちます。
以前の入試問題では、麻布中・鴎友中・武蔵中くらいでしか見かけなかったようなテーマ横断型かつ思考力問題が、多くの学校で出題されるようになっています。
しかし、残念ながら、大半の塾では対応が不十分だと思います。
〇入試問題の研究不足
〇新規教材開発のマンパワー不足
〇指導が困難なので後回しにしている
こういったあたりが理由だと思います。
そこで、指導歴〇〇年の私が、直観にしたがって、今後出されるのではないか? と密かに考えていたテーマについて、記事にしていきたいと思います。
中学入試に関心がなくとも、ハワイの日系移民に興味のある方はぜひお読みください。
そもそも中学入試問題の予想は困難
中学入試問題の予想は困難であり、かつ無意味である。
これが基本的な私の考えです。
特定の学校の入試傾向をいくら分析したところで、それは「過去」の話であり、その対策にこだわりすぎることは入試傾向の変化に対応できなくなるからです。
また、社会科においては、教えた知識が出るのが当たり前(つまり入試に出る知識はすべて教えている)であり、あえて「当てた」と自慢することはできません。
とはいうものの、過去には「Hit!」と叫びたくなるような会心の当たりもありました。
武蔵中の社会科入試問題です。
今でこそだいぶおとなしくなりましたが、かつての武蔵中の社会科の入試問題は、よく言えば個性的、悪くいえばやりたい放題といった記述問題を出題していました。
例えば、千夜一夜物語(アラビアンナイト)に出てくる職業や動植物などのリストがあり、「ここに出ていることがらとあなたが読んだことのある千夜一夜物語を思い出し、当時のイスラム社会について説明しなさい」といった問題が出されたことがあります。あまりに古い問題なので手元には資料はないのですが、インパクトがあったので覚えています。
小6の知識としては、イスラムといえばムハンマドやラマダーンくらいを知っているのがせいぜいです。9世紀以前のイスラム社会についての知識など皆無です。
もちろんこの問題は、イスラム社会について詳しい小学生をとる目的ではなく、どの角度から飛んでくるかわからないボールでも、自分なりに考えて記述できる生徒を試す問題なのは明らかです。
したがって、武蔵の社会科記述指導の基本は、足腰の強い記述力を鍛えることにあります。
さて、その当時の武蔵中の社会科には、こんな傾向もありました。
私が勝手に「旅行問題」と名付けた出題です。
たとえば、南米ペルーの日本語新聞のタイトルだけを切り貼りしたものが載せてあり、「これを見て、ペルーの社会について記述せよ。」という、まあ乱暴な出題がありました。
あきらかに出題者の先生がペルーに旅行して思いついた問題です。
さて、あるとき、教え子で武蔵に進学した生徒が顔をだしました。そのときこの生徒がふとこんなことをもらしたのです。
「俺らの学校の歴史の先生、夏休みにモンゴルに旅行したんだってさ。」
「!!」
日本とモンゴルの歴史的なかかわりとしては、元寇しかありません。
教えていた武蔵中志望の生徒たちには、重点的にその時代について指導しました。
さて、翌年の入試のテーマは、ずばり「東方見聞録」でした。
マルコ・ポーロが元の皇帝フビライに気に入られて中国に滞在していたのがちょうど元寇のころですね。
もちろん武蔵志望者の授業でもかなりあつかっておきました。
もともと「東方見聞録」は日本についての記述が伝聞推定で怪しいため、入試で取り扱われることはありません(聞いても名前程度)。それが歴史史料問題として出題されたわけですから、その時の生徒たちはラッキーとしかいえません。
さて、この記事の目的は、このようなホームラン級大ヒットをねらうことではありません。
こうしたテーマはおもしろい
いつか出題されるかも
と私が感じたテーマについて、自由に書いてみたい、それが目的です。
しばしおつきあいください。
日系移民といえばハワイ
ハワイにも平等院鳳凰堂があります。
以前の記事でも書きました。
奈良・京都で見るべき寺院や歴史的建造物の魅力 - 中学受験のプロ peterの日記
Valley of the Temples Memorial Parkという公園墓地の奥に鳳凰堂はあります。宇治の平等院の三分の一サイズのレプリカで、分院ということではありません。日本人のハワイへの移民100周年を記念して1968年に建てられました。ワイキキからですと、H1-westからPari-Hwyに入り、山を越えてカイルアの手前でKamehameha-Hwyを北にすすみカネオヘを超えたあたりといえばわかる方もいるでしょうか。車で40分くらいのところです。
バレー・オブ・ザ・テンプルズ・メモリアルパークのHPで写真をごらんください。
Valley of the Temples Memorial Park, Funeral & Crematory
コオラウ山脈を背景に立つ平等院の建物を初めて見た時、私は日系移民の気持ちに少しだけ触れたような気がしたのを覚えています。
昔、ハワイで懇意にしていた日系2世の方のお父様、つまり1世の方の家に招かれたときにも感じた思いです。
その方は、もう日本語は忘れて話せません。ただ、広い庭一面に盆栽が育てられていたのが印象的でした。
正直、ハワイの風景に盆栽は似合いません。気候も適さないことでしょう。それでも熱心に盆栽を手入れする。私にはわからない、故郷の日本に対する思いがあるのだと感じました。
日系移民の歴史については、ブラジル・ペルーへの移民や戦争中の強制収容所の話など、いくらでも書きたいテーマがありますが、またいずれ記事にするとして、今回はハワイの日系移民にしぼって書くこととします。
ハワイへの日本人移民の歴史
(1)元年者
ハワイへの日本人移民の歴史は、1868年(明治元年!)に始まります。「元年者」とよばれた移民は、153名(のちに数十名帰国)だったそうです。
まさか明治元年にすでに移民する人がいたとは驚きです。何か事情がありそうですね。少し調べてみました。
そもそも移民とは、労働力の移転に他なりません。
受け入れ側に労働力の需要があってはじめて移民が行われるのですね。
この需要がない状態での移民は、受入国の労働環境の悪化や治安の悪化を招く心配があります。現在のヨーロッパがまさにそういう状態ですね。
さて、ハワイにおける労働力需要とは、ずばりサトウキビ栽培です。
1848年に当時のカメハメハ3世が、土地の私有を認めたことから、ハワイにおける本格的なサトウキビ栽培が始まりました。
1849年には、アメリカとハワイ王国の間で和親条約が結ばれ、アメリカへの砂糖輸出が増えていくことになります。
このあたりのことを、年表形式で整理してみます。
鯨油を目的とした捕鯨を、アメリカはおもに大西洋で行っていましたが、乱獲によりとれなくなったため、今度は太平洋へと漁場を求めます。
このころは、日本近海が良い漁場だったのですね。
日本が沿岸捕鯨を行っていた時期です。
太平洋の真ん中にあるハワイは、捕鯨船の寄港地として栄えることになります。
さらにゴールドラッシュにより太平洋側に人々が押し寄せ、太平洋へと目を向けることにもなりました。
ペリーが日本にやってきたのもこのころです。
ところが今度はアメリカで油田が発見されたことで、捕鯨産業は一気に衰えることになります。
代わってハワイで主要な産業となったのがサトウキビ産業でした。
サトウキビというのは特殊な作物です。
〇主食でない・・・国内需要は限られるため輸出しないと利益があがらない
〇保存できない・・すぐに砂糖に加工しなくてはならない
〇労働集約型・・・生産→収穫→加工まで労働力を多く必要とする
ハワイにおける重要な産業として、アメリカ人によるサトウキビプランテーションが展開されていきます。
しかし、労働力が不足したのです。
そもそもハワイに欧米人が入ってきたことで伝染病が流行し、ハワイの人口は激減しました。
そのため移民の必要が生じたのですね。
咸臨丸がハワイに寄港した際に、カメハメハ4世により日本に対して移民が要請されましたが、日本はスルーしたようですね。
(余談ですが、さきほどから「カメハメハ」と入力しようとすると最初に「かめはめ波」と変換されるのが鬱陶しいです)
カメハメハ5世は駐日領事(ヴァン・リード)を通じて交渉し、徳川幕府は渡航許可証を発行しました。ただし、すぐに明治に代わり、明治政府はこの許可証を認めなかったため、不法出国する形で移住したのが元年者たちなのですね。
(2)官約移民
その後明治政府がハワイと交渉し、正式な移民がはじまることとなり、29000人ほどが移住したそうです。
もっとも、この移住を取り仕切った駐日領事のアメリカ人実業家の搾取などもあり、この当時の移民の労働環境は劣悪でした。
1894年には官約移民は終了し、事業は民間に移行します。
(3)私約移民から自由移民へ
5年間だけ存続したハワイ共和国時代の移民は「私約移民」でした。
日本にはいくつもの移民会社が設立され、おもに熊本や広島、山口など西日本から多くの日本人が移住しました。
やがてハワイがアメリカに併合されると、この移民会社は解散します。そののち7年ほどは「自由移民」が移住することになります。
それにより7万人以上が移住しました。
その後は「呼び寄せ移民」の時代です。
日系移民の制限をしたいアメリカと日本の取り決めにより、出稼ぎ目的の移民を日本政府が制限したため、ハワイから家族を呼び寄せる形での移民が、いわば抜け道として行われました。また、ハワイに移住した独身男性が、結婚相手を日本から呼び寄せることも多く行われました。いわゆる「写真花嫁」の時代です。
16年ほどで6万人以上が移住し、ハワイの人口の中に占める日系人の割合が43%ほどにもなりました。
ハワイだけでなく西海岸を中心としたアメリカ本土への移民も増えましたが、やがてカリフォルニア州から日本人排斥運動が広がり、1924年の移民法(排日移民法)により、日本からハワイへの移民は終了します。
1924年段階で、地域別日系移民は、熊本・山口・広島・沖縄の順に多かったようです。
※今回の記事を書くにあたっては、ハワイ州観光局の公式ラーニングサイト「ALOHA PROGRAM」がとても参考になりました。
受験が終わった後のご褒美ハワイ家族旅行?を企画するなら、ぜひ事前に見ることをおすすめします。ハワイ旅行が、学びの旅行になるきっかけとなるでしょう。
ハワイの食文化に見る日系移民の影響
さて、ここからは肩の力を抜いて、ハワイで見かける日本の影響が濃い料理についてみていくことにしましょう。
世界各地に日本食レストランはありますが、その多くは日本人駐在員の接待需要か、あるいは日本食好きの地元の富裕層を対象とした、一言で言ってしまうと「お高い」レストランばかりです。
あるいは、日本食ブームを当て込んだとみられる、謎の日本食を出す店も見かけます。
パクチーが載ったうどん!とか、マンゴーやイチゴの海苔巻き!とかですね。(どちらもロンドンで遭遇し、目が点になりました)
しかし、一部、日系移民の多いところでは、地元の日系人向けの日本食レストランも見られました。こうした店では、微妙に現地の影響が及んでいるところがおもしろかったですね。
私がハワイの日系2世の方に連れられてよく行ったレストランもそうした店の一つでした。客のほとんどが地元の日系人の方で、テーブルのあちこちから親しげに私の知人に声がかかる、そんな店です。価格も、ワイキキあたりの観光客向けの阿漕な値付けではなく、地元ローカル価格でした。
天ぷら定食的なものを注文した時でしたか、まず最初に運ばれてきたのは味噌汁です。
大振りなお椀の蓋には、刻んだネギが載っています。わかりますかね、お椀の蓋の持つ部分って、窪みがありますよね。そこにネギが盛られているのです。
私が想像するに、料理人が「この窪みは何だろう?」と悩んだ結果、「そうか、ネギを盛るところだ!」とひらめいたのでしょうね。
さて、この味噌汁を飲みほさなければ次の料理は出てきません。
味のほうはいたって普通でした。
この店にいくといつも、日本とハワイの奇妙な融合を見る思いです。残念ながら、だいぶ昔に閉店してしまいました。
◆オックステールスープ
ハワイ好きな方ならご存じですね。
最初に食べたときは驚きました。味ではなくてロケーションに、です。
ワイキキから少々離れた地元感満載の古びたボーリング場の中、カピオラニ・コーヒー・ショップの名物料理です。
ボウリングのピンが倒れる音が鳴り響く店内では、普通のボウリング場ならコーラとホットドッグくらいを食べるところ、客のほとんどがオックステールスープを頼みます。
ホロホロに箸で崩れるオックステール肉と滋味深いスープがたまりません。私がこれを最初に食べた時に想起したのは、沖縄のヤギ汁でした。
ヤギ汁のほうがだいぶワイルドな味でしたが、たっぷりとフーチバー(よもぎの一種)を入れたヤギ汁とパクチーを盛ったオックステールスープは似ています。もしかして沖縄料理の牛汁の要素も入っているかもしれません。
絶対にこれは沖縄系移民がからんでいると思って後で調べたところ、その通りでしたね。店のオーナーは沖縄系移民でした。
ところでここでボウリングをやったこともありましたが、装置がとてもレトロで、レーンのわきをボールが戻ってくるのが丸見えでした。
残念ながら、こちらのボウリング場は15年以上前に閉鎖されてしまいましたが、オックステールスープはいくつかのレストランで味が継承されています。おすすめは「朝日グリル」です。
◆サイミン
これは何といっていいのでしょうか、ラーメンのようなものです。
エビ出汁のあっさり系スープに縮れ麺の軽いラーメンもどきといったところでしょうか。ハワイでは、どの店でも、それこそマクドナルドのメニューにもあるほどポピュラーです。
私はいつもスーパーの冷凍サイミンを買っておいて、部屋飲みの締めにしていました。
サイミンのルーツにも諸説あるようです。日系移民が、そばの代わりに中華麺を、かつおだしの代わりにエビ出汁をつかったという説がありました。
しかし、一口食べればわかります。これは沖縄そばが一番近いです。
最初期にサイミンをメニューにしていた店は、沖縄系移民の方が開いた店だったそうです。
◆プレートランチ
ハワイは食のテイクアウト文化が定着しています。ショッピングモールのフードコートはもちろんのこと、テイクアウト専門の店も多く、人気店も多くあります。
知人の地元の老夫婦に夕食に招かれたときのことです。
「ハワイらしい料理をごちそうする」というのに期待をふくらませてうかがいました。
車で迎えに来てくれたのですが、家に向かう途中にテイクアウトのプレートランチを買っているのですね。その時は何も気づかず、親戚の子供でも遊びにきているのかな?くらいにしか思いませんでしたが、もちろん家についてテーブルに並べられたのはそのプレートランチでした。
サトウキビプランテーションの移民労働者たちがそれぞれおかずを持ち寄ったことがルーツだともいわれているようですが、明らかに日本の弁当文化の影響が感じられます。
最近では、「BENTO」を売る店が世界各地にあるようですね。日本のBENTO文化が広がった背景には、アニメの影響もあるといわれています。たしかに学園物のアニメに弁当を食べる場面など多そうです。この写真はパリのオペラ地区にある弁当屋のメニューです。もう、日本と何も変わりません。
◆スパムむすび
これは比較的新しい料理?ですね。
スパム缶そのものは、第二次世界大戦当時にアメリカ軍が多用した缶詰です。そもそも軍用目的の保存食として開発させたといわれています。それを、退役した日系人兵士がハワイに普及させたということのようですね。
それを、日系移民がおむすびの上にのせて食べるようになったとも、日系人経営の店で押しずし型に入れて作るようになったともいわれています。まあ、どちらでもさほど変わりはないです。適度な塩気でごはんがとても進むスパムです。おかずとしてごはんの上に載せたあたりから、弁当へ、そしておむすびへと進化?したといったところじゃないでしょうか。
ちなみに、この缶詰は沖縄でもよく食べられているようですが、沖縄ではスパムブランドの缶詰よりもチューリップブランドの缶詰のほうがメジャーです。そのため、スパムではなく「ポーク」とよばれています。もともと沖縄には塩漬け豚肉(スーチカーというそうです)の保存食があったため、それがこの缶詰に置き換わったとみることもできるでしょう。いずれにしてもアメリカ軍の影響で広まった食文化です。
もっとも、この「スパム」は、合成保存料や添加物を拒否したい方にとっては悪の権化?のような缶詰かもしれません。どんな肉がどのように加工されているのかは深く考えてはいけないのです。そうした細かいことを全く気にしない私は、昔からよく食べます。ハワイや沖縄から帰るときのトランクには、けっこたくさん詰め込んでいます。重いのですが、日本では高すぎるので。
ところで、スパムは、よく火を入れないと生臭くて美味しくないです。中弱火で両面をじっくり焼くのがよいですね。焼き過ぎるとカリカリベーコンみたいな食感になってしまうので要注意です。それはそれでビールのつまみにとても会うのですが。
◆ポキ
一般にハワイの伝統食とされているポキも、移民と関係があります。中国系移民や日系移民が持ち込んだゴマと醤油が使われていますね。
マグロ・サーモン・タコなどを細かく切って、醤油やごま油などで和えて食べます。ごはんに盛ったポキ・ボウルもポピュラーです。
どう考えても、これは「漬け丼」です。
他にもスパイシーポキなどもあり、多国籍な味となっています。
「食」というのは、その土地の気候風土や産業と結びついています。そして人の移動が食文化を多彩なものにしていきます。
従来の入試問題では、日本の食の歴史についての文章に歴史の知識をからめた出題が多くみられます。
今後は、食文化の波及をテーマとした出題が増えるのではないか? というのが私の勝手な予想です。
日本における韓国料理の広がりと日韓関係の歴史など、つくってみたい問題のテーマですね。
これも、そのうち記事として深堀りしてみましょう。
イギリス食文化についての考察はこちらで記事にしました。