中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

産業革命と植民地の拡大がもたらしたイギリス食文化の変化

ロンドンのパブからはじめて、イギリス産業革命と植民地の拡大が食文化に与えた影響について考察してみましょう

  一般においしくないといわれるイギリスの食事ですが、そこからいろいろな歴史的背景が見えてきます。

1.フィッシュアンドチップスはイギリスのファストフード

ロンドンのパブに行くたびに毎回思うことがあります。
フィッシュアンドチップスって、美味しいのか?
やたらに大きくて大味な白身魚のフライにポテトフライ、さらに豆のペースト。
やっぱりロンドンのパブだから、とついつい注文するのですが、食べ終わるころにはいつも後悔している気がします。
フィッシュアンドチップスの写真5連発。

フィッシュアンドチップス01

フィッシュアンドチップス02

フィッシュアンドチップス03

フィッシュアンドチップス04
 

フィッシュアンドチップス05

 

全部違う店だけれど、みんな同じに見えます。味だって、どこが美味しかったとか特別な記憶はありません。
ね、見てるだけで胃もたれしてくるでしょ?
これを食べてしまうと、もうそれだけでお腹がいっぱいになり、何か達成感のない満腹感で残念な気持ちになってしまうのです。
 
しかし、この「お腹いっぱいになる」というところが重要です。
 
では、フィッシュアンドチップスをつまみながら、イギリスの歴史と食文化の関係について考察してみることにいたしましょう。
 

2.産業革命以前のイギリスの食文化は?

ここでは、貴族階級の食事と庶民の食事を分けて考えます。
貴族階級は、フランス料理を食べていました。
イギリスの貴族達はフランスから連れて来た料理人に食事を作らせていましたので。
そもそもイギリスの王室は、11世紀にフランスからきたノルマンディー公ウィリアムが創始したのがはじまりですし、それからも200年ほどもフランス語を話していたくらいです。
ここでは、普通の庶民=農民たちがどんなものを食べていたのかを考えたいと思います。
 

 (1)冷涼な気候と食材

イギリスの気候を考えれば、当時も今も気候には変わりはないわけですので、栽培されていた作物等は大きく変わらないでしょう。
〇麦・・・小麦・大麦
〇畜産・・・牛・豚・羊
あとは野菜少々ですね。
そこから生み出される料理を考えると、食文化といった大仰なものではなかったことは容易に想像できます。
ただし、これは日本でも事情は同じです。
 
農民たちが普段食べていたものは、基本的に自分たちが育てていたものが中心ですので、とりあえず腹を満たすことが優先されるのは古今東西同じですね。
とはいうものの、祝祭日には、特別な料理を作って食べるわけです。
イギリスの郷土料理として今に伝えられているものは、そうした特別な料理でした。
 
〇シェファーズパイ・・・羊のひき肉と玉ねぎやニンジン、豆などを煮込んでマッシュポテトをのせてオーブンで焼いたものです。いわゆるミートパイですね。
 羊のひき肉を使うということで、肉の保存技術がない当時としては、特別な時でなければ作られなかったとわかりますね。
〇ハギス・・・羊の内臓を羊の腸に詰めて茹でたソーセージ。これはスコットランドの伝統料理です。
〇ローストビーフ・・・もともとはローマ帝国の兵士が肉を丸焼きにして食べていたのをまねたといわれています。イギリス料理では例外的においしい(ところもある)ですが、どう考えてもこれは庶民の料理ではなさそうです。
〇ウサギ肉のパイ・・・私は食べたことがないので美味しいかどうかは不明です。みなさんは「ピーターラビット」のお話をご存じでしょうか? 物語冒頭に、ピーターラビットの両親が農民につかまってウサギ肉のパイにされてしまうエピソードがありました。
実は、このウサギを食べる風習は、産業革命とかかわっています。
 
 

3.産業革命がもたらした食の変化

まずウサギの話からしましょう。
もともとイギリスにはウサギはいなかったのですが、11世紀にフランス食文化の流入とともに、飼育されるようになったそうです。
肥沃ではないイギリスの農業は、三圃式農法が行われていました。農地を3つに分け、小麦・大麦・休耕を繰り返す農法です。
やがてノーフォーク地方でカブ(家畜のえさ)→大麦→クローバー(えさ)→小麦の四圃式の農法がはじまると、野生ウサギの数が爆発的に増えます。
貴族たちがキツネ狩りをしてウサギの天敵が減少したことも原因の一つと考えられます。
 

 (1)農村の人手不足

これは日本も同じでしたね。
若い労働力が都会に出てしまえば、農村の食文化の担い手がいなくなります。
また、祝祭も開催されなくなれば、当然特別な料理も失われていきます。
東京大学の小野塚知二教授の研究によれば、19世紀までに多用された食材でその後失われたものに、以下のようなものがあるそうです。
 
〇鹿肉・鳩・ウサギ・キジ
〇ブルーベリー・プルーン・干しブドウ・ブラックカーラント
〇セージ・ニンニク・フェンネル・クレソン・ローズマリーからし
〇リンゴ酒・ワインビネガー
〇生姜・サフラン・シナモン・ナツメグ・オレンジ・レモン・アニス・アーモンド
 
そして、19世紀中ごろ以降に大量に使われはじめた食材はこのようになっています。
〇ゼラチン・瓶入りグレービー・ハーヴィーのソース・肉エキス・固形スープ・瓶詰ジャム・ソーセージ・ベーコン・ハム・マーガリ
〇タラ・カレイ
長粒米・カレー粉
 
また、昔も今も多用される食材はこうなっています。
〇人参・セロリ・玉ねぎ・キャベツ・ジャガイモ
〇牛肉・羊肉・獣脂
〇バター・クリーム・パン粉
 
こうして食材を見ているだけでも、料理がなんとなく浮かんできます。
冒頭に紹介したフィッシュアンドチップスが見えていますね。
牛脂でタラを揚げ、ポテトフライを添える。なるほど。
 
 

 (2)労働者階級の登場

イギリスでは、もともと魚のフライやジャガイモのフライは食べられていたそうですが、産業革命期に一気に広がったとされています。
労働者階級の登場です。
豊かではない労働者階級の空腹を満たすことで、フィッシュアンドチップスは普及していったわけですね。
そういえば、たっぷり砂糖を入れた紅茶も、労働の合間の空腹を紛らわせる理由で広がっていきました。
 
食文化と歴史は、いろいろなことでつながりあっています。
入試問題でも、食べ物の歴史にからめた出題をよくみかけます。
 
この労働者たちは、過酷な環境で労働に従事していました。
〇食事時間がない=料理する時間がない
〇キッチンがない・・・住環境が劣悪
〇新鮮な食材が入手できない・・・加熱時間を長くする
傷みかけたような適当な野菜を長時間煮こんだり、新鮮とはいえないタラを長時間牛脂で加熱したり。
 
考えただけで不味そうです。
また、料理を美味しくするためにとても大切な良い水も手に入りませんでした。
そのまま飲めるような安全かつ美味しい水は都市部においては皆無です。
それは、料理がおいしくなるわけないなあ、と思います。
 
しかし、そんな衰退に向かうイギリス食文化を救う救世主が現れます。
植民地の食文化の流入です。
 
 

4.産業革命の進展

 
まずは、産業革命について整理してみましょう。

 (1)綿工業の技術革新

1733 ジョン=ケイ   飛び杼
1764 ハーグリーブズ  ジェニー紡績機
1769 アークライト   水力紡績機
1779 クロンプトン   ミュール紡績機
1785 カートライト   力織機
 
まずは、ジョン=ケイの飛び杼の発明です。
縦糸に横糸を通す「杼」を自動的に左右に往復させるという、いわばちょっとした工夫ですが、これが綿布の作業効率を数倍も向上させ、綿糸不足をもたらしました。
ジェニー紡績機と水力紡績機の利点を組み合わせたのがミュール紡績機です。さらにカートライトによって、蒸気機関が導入され、飛躍的に生産量が伸びました。
 

 (2)動力革命

1712 ニューコメン     炭鉱排水用の蒸気機関
1776 ジェームズ=ワット  実用的蒸気機関の改良
1807 フルトン(米)    外輪式蒸気船
1825 スティーブンソン   蒸気機関車
 
蒸気機関といえばワットですね。
ワットの改良(発明)のポイントは2つです。一つ目は、蒸気機関の熱効率に着目した点です。この改良により、従来の1/3の石炭で安定したパワー供給を可能にしました。
二つ目は、ピストンの往復運動を回転運動に変える発明です。
こうして蒸気機関があらゆる機械の動力源となる道を切り開いたのです。
すぐに蒸気機関を船に組み込む試みが各地で行われます。
1783年には、フランスのクロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ・ダバン侯爵(覚えられない!)が実用的な蒸気船の運航に成功しているらしいのですが、歴史には名前が残らなかったですね。フルトンが蒸気船を最初に運航(営業運航)した人物として名を遺すことになりました。
科学技術発達の歴史には、このような先陣争いの運・不運の話がたくさんあります。
飛行機の発明といえば1903年ライト兄弟というのが定説ですが、実はその2年前にグスターヴ・ホワイトヘッドが動力機の飛行に成功したという説があります。残った資料が少ないところからホワイトヘッドの功績は認められていないのですが、のちに両者の飛行機を再現したところ、ライト兄弟のものは飛べなかったが、ホワイトヘッドのものは飛行に成功したということです。
 
こうした顧みられることのなかった歴史の話というのは非常に面白いのですが、本題からそれますので、先へ進みます。
 
 

 (3)インドへの進出

インド航路を最初に開拓したのは 1498年 ヴァスコ=ダ=ガマ(ポルトガル)でした。
いわゆる大航海時代のことです。
こののち、インドから東南アジアにかけての香辛料貿易をオランダが独占します。
イギリスとしてもこの利益に目をつけるのですが、1623年アンボイナ事件の失敗により東南アジアから手を引き、インドへと注力することとなるのです。
 
ところでこのアンボイナ事件というのは、インドネシア島嶼部のモルッカ諸島でおきました。ここはナツメヤシや丁子の特産地で、最初はポルトガルが、そこにスペインが割り込んで争っていたところにオランダが乗り込んできて、ほぼ制圧していました。さらにそこにイギリスが乗り込んでいき対立したのですね。
 
金に目のくらんだ各国が植民地をめぐって対立するという、世界各地で見られた構図です。
さて事件は、「イギリス人商人が日本人傭兵を使ってオランダ商館を攻撃しようとしている」というオランダによるでっち上げに端を発し、イギリス人・日本人等20名ほどが処刑されました。
その結果、イギリスはこの地からインドへ支配へと矛先を変えることになるのですね。
 
このころ東南アジア各地には日本町が形成されていました。そこには、関ヶ原の戦い以降行き場を失った武士たちが流れ着いて傭兵となってもいました。山田長政がシャムで出世を重ねていたのもこのころです。
 
さて舞台はインドへと移ります。
 
しかし、イギリスは今度はフランスとインドをめぐって対立することになるのです。いわゆる英仏植民地戦争の時代ですね。
 
1741~61年 カーナティック戦争・・・フランス東インド会社とイギリス東インド会社が、南インドを舞台として3度にわたり戦いました。
 
1757年 プラッシーの戦い・・・イギリス東インド会社軍VSインド太守軍(フランス東インド会社が支援)
 
この一連の戦争の勝利により、イギリスのインド支配が確立したのです。
 

 (4)カレーがイギリスへ上陸

さて、カレーがイギリスへ上陸したのは、1772年、イギリス初代インド総督ウォーレン・ヘースティングズによってでした。
 
どうやらイギリス人の好みにあったようで、カレー料理はたちまちイギリス全土へ拡大した、といいいたいところですが、それにはカレー粉の発明を待たなくてはなりません。
19世紀初頭、二人のイギリス人エドモンド・クロスとトーマス・ブラックウェルのC&B社がカレーパウダーを発売しました。
本来インドのカレー料理は、各家庭が数種類の香辛料をミックスして独自の家庭の味を作るものです。それをミックスパウダーとして販売したことで、使いやすいものになったのですね。
このC&Bのカレーパウダーは、今でもネスレ社によって販売されています。カレー粉の基本ともいわれているそうです。
カレー粉の基本といえば、日本ではS&Bの赤缶ですね。
日本にも入ってきたC&Bのカレーパウダーの製法は明かされておらず、これを独自の研究によって作り出したのが山崎峯次郎で、エスビー食品の創業者です。
 
日本におけるカレー文化の進展についてもおもしろい問題が作れそうな気がしてきました。
またいずれ深堀りしてみることにします。
 
さて、これは私の私見なのですが、カレーがイギリスに普及した背景としては、前述した新鮮な食材不足と良い水不足が大いに関係しているような気がします。
もともと肉や野菜をグタグタに加熱調理したシチューがあったのですから、これにカレーパウダーを使うと、たちまちイギリス式カレーシチューができあがりますね。素材や水の不味さをカバーしてくれるものとしてカレーパウダーは重宝されたのではないかと思います。
 
結局、1858年~1947年まで、インドはイギリスの植民地でした。
現在イギリスで見られるカレーは3種類と言っていいと思います。
1つは、いわゆるイギリス式カレーです。
とろみのついた、カレーシチューですね。
これはライスと合わせます。
もう一つは本格インド式カレーです。

インド式カレー
ロンドン各地にはおいしいインドカレー屋があります。上の写真は、ケンジントンあたりの店のものです。開店時間になってもコックが出勤しておらず料理が出てこないというルーズさもインドっぽい?店でしたね。
 
実は、もう一種類のカレーがこれです。

日本風カレー
Wasabiという店の「katu-curry」です。
もうおわかりのように、これは日本式のカツカレーです。
これは産業革命とも植民地経営とも無関係です。
最近の日本食ブームの延長に位置するといってよいでしょう。
あるとき、ちょっと軽くランチでも、とWasabiに入ったところ、前に並ぶロンドンの方のほとんどが注文していたのが「カツカレー」でした。そこで私も真似をしてみることにします。
カツが無いカレーも「カツカレー」と呼ぶようですが、これはカツ入りです。カレーに覆われて見えてません。
味は、もうこれが完璧に日本のカレーなのです。
インドカレーももちろん美味しいですが、日本式カレーって、ときどき無性に食べたくなりませんか?
 
ロンドンにはこのほかにも、最近のロンドンにおけるカツカレーブームの火付け役ともいわれる「wagamama」という店もありますが、私はWasabi派です。
 
このお店は、もともと持ち帰り寿司が主力の店です。
寄り道にはなりますが、ちょっとロンドンにおける寿司についてみてみましょう。
 

5.日本の食文化の進出

近年の日本の食文化の世界への波及にはすさまじいものがあります。
 
もちろん、従来から、お金さえ出せばまともな日本食を出す料理店が世界各地にありました。地元の方用というよりは、現地日本人駐在員の接待用とでもいうべきお店ですね。こうした店では、大半の食材を日本から空輸させているため、価格も非常に高価でした。
しかし、近ごろは、地元客御用達のようなローカルなスーパーにも普通に寿司コーナーがあったり、醤油やそうめんなどの日本の食材が置かれていたりします。
 
日本食がすっかり地元に根付いているのだなあ、と何となく嬉しくなりますね。
 
ロンドン寿司屋
こちらは、Finchley、West Actonあたりで見かける「ATARI-YA」という日系スーパーの寿司屋でしたかね。食べ物を扱う店でその店名はいいのか? と思いますが。
 
この「KOBE SUSHI」は価格もお高めだったように思います。
 
私が気に入っているのはこちらのお店です。
そう、「Wasabi」です。
さきほどのカツカレーが食べられるのがこのお店です。
持ち帰りのお店ですが、中で食べることもできます。まるでスイーツ屋さんのような外観ですね。ショッピングモールや駅構内などでよく見かける、まあファーストフード店です。気軽に買えるのが私にはうれしいのです。

wasabi店内01
寿司はこのように個包装になっています。2個で1.2~1.9ポンドでした。

wasabi店内02
詰め合わせセットも多数あります。4~7ポンドくらいでした。(今はもっと高いかも)
汁ものもいろいろあります。
チキンうどんで3.2ポンド、野菜タンメンで5.3ポンドでしたね。
 
さっそく少し買ってホテルで食べましょう。

wasabi 持ち帰りすし
夜食にちょうどいいですね。醤油とガリももらえます。
 
こうしてロンドンの和食の普及を見ていると、食文化の広がり方の新たな面を見ているような気がします。
 
インドカレーにしても中華料理にしても、植民地と深く関係していました。植民地からの移民の増加や、植民地で現地の料理に親しんだイギリス人の需要などですね。いずれにしても、人の移動にともなって食文化も広がっていくものだと思います。
そういえば、アメリカでベトナム料理店が増えた時期と、ベトナム戦争後のベトナム難民の受け入れ時期は完全に一致しています。
 
ところが、近年の寿司やカツカレーの普及は、人の移動を伴っていないようなのです。
とくにロンドンの日本人人口が増えたのでも、日本にくるイギリス人が増えたわけでもありません。どうやら、人の移動を伴わない情報の移動が食文化を広げているようですね。
 
食べることが大好きな私としても、深堀りしたくなるテーマです。
 
入試問題では、食文化の歴史にからめた出題が多く出されています。今後も注目が必要なジャンルですね。
 
今回記事にしたイギリスの話は、思いっきり世界史の範囲になります。
さすがに中学入試には出題しにくいかもしれません。
 
本来なら高校入試で、と思うのですが、残念ながら高校入試の社会科の問題は、基本知識偏重の内容がほとんどで、場合によっては中学入試以下のレベルといいたくなるくらいです。
 
だいぶ以前の話になりますが、私が某出版社から高校受験用の問題集の執筆依頼をうけ、はりきって思考力系記述問題をたくさんつくったところ、担当者から難色を示されたことを思い出しました。そのせいかどうか、その問題集はあまり売れなかったようです。
 
1つの事象を調べていると次々に面白いネタにぶつかり、思いもよらぬ方へ思考が広がっていくというのが社会科の醍醐味です
 
中高一貫校の社会科は、そうした調べ学習に力点を置いているものです。
いずれ進学することを考えると、これくらいの視野の広がりは必要なのではないか、と思っています。
 

おまけ・・・シンガポール料理


シンガポールも、1820年代から1965年までイギリスの植民地でした。最初にシンガポールの重要性に目をつけたのがイギリス東インド会社トーマス・ラッフルズです。現在もシンガポールのホテルにその名を残していますね。
この「イギリス東インド会社は、植民地拡大の世界史を学ぶ際には重要なワードです。
そのシンガポールアメ横とでもいうべき通りの名(Bugis Street)を冠したこの店は、ロンドンのハイドパークからほど近いところにあります。値段も高くはなく美味しいのでよく行きました。
こうしてみると、負の側面しか目につかない列強による植民地化ですが、食文化という観点からみれば、世界に多様な食文化をもたらす効果があったといえます。