中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

論説文読解の鉄則



今回は、説明文=論説文読解のコツについて書きたいと思います。

 

1.そもそも論説文とは?

正確に言えば、説明文論説文は違います。

手元の国語辞書(新明解)によると、

説明文:「文芸的な文章と違って、事理・事件を説明する文章」

論説文:「時事的な問題などについて自分の意見を述べた文章」

となっています。つまり、

◆論説文・・・筆者の主張を述べた文

◆説明文・・・事実を正確に述べた文

ということですね。

いわば、説明文が新聞記事だとしたら、論説文は社説だといわれます。

しかし、中学入試の国語においては、この両者を厳密に区別する必要はありません。

そこで、本稿では両者を「論説文」と表記します。

論説文と物語文の差はどこにあるでしょうか?

それは、

 〇筆者の主張=「云いたいこと」が明確

 〇事実に基づく例があげられている

この2点と考えていいですね。

どんな論説文にも筆者の主張がこめられており、それを補強する目的で例があげられています。その例は事実でなければ何の意味ももちません。

筆者の主張:「宇宙人がUFOで地球にやってきている」

もしこれが主張だとしたら(くだらない例で恐縮です)、その主張を裏付ける「強固な事実」が必要ですね。それがもしこうだったらどうでしょう?

事実の例:「私は見たことがある」

何の説得力も持ちません。まあ、主張がこれですから、事実に基づいた例などあげよもないのですが。

まとめますと、論説文には筆者の主張が「わかりやすい形」で示されています。したがって、論説文読解の第一歩は、この「筆者の主張」を探すことになります。

 

2.例を区別する

 筆者の主張を裏付けるさまざまな事実が例としてとりあげられるのが論説文の特徴だと書きました。

しかし、この例にはいくつかの種類があることに注意する必要があります。

 例A:筆者の主張の証拠となる例

 例B:筆者の主張の反対の立場となる例

 例C:一見事実を述べたように見えて、実はそうではない例

具体的に考えてみます。

NASAアメリカ航空宇宙局)が、UFOが地球周回軌道を回っていることを確認してレーダーのデータを公表した。」

もしこんな発表があったら、世界中が大騒ぎになりますね。明らかにこれは例Aに該当します。

「古来よりUFOの目撃例は多いが、アメリカ国防総省の調査によると、そのほとんどは気球や自然現象の見間違いであることが確認されている」

この例は、例Bですね。ここで注意が必要なのは、一見筆者の主張と真逆の例であることです。これは一般的なテクニックですね。

「確かに〇〇だ。しかし、△△だ。」という具合に、一度相手の意見に同意をしてみせてから反論するテクニックです。ここでUFOの実在を否定する例をあげることで、「私はUFO教の信者じゃありませんよ。きちんと自分の意見に反するデータも検討しているんですよ。」と示す事ができるのです。

ここをきちんととらえないと、筆者の主張が何なのか混乱してしまうのです。

「或る晩のことです。私の寝室の窓が怪しい青い光で満たされたのです。窓をあけると目の前にはUFOが・・・・」

一件実例、しかも筆者の主張を証明する決定的な実例のように思えます。しかし、これは筆者の「主観」、「個人的な体験」にすぎません。一人の例は一般化できるはずもないのです。これが例Cです。

 

3.形式段落に番号をつける

 論説文読解のイロハですね。形式段落に番号をつけましょう。

物語文とは異なり、論説文の段落分けには意味があります。主張の部分と例の部分を区別するためであったり、複数の例をあげるときに、形式段落で区分けします。

例えば10個の段落に分かれたとします。次に行うのは、それぞれの段落がどのような役割を果たしているかですね。それで文書全体の倫理構成を把握してしまえば、読解は完成です。

※残念なことに、形式段落の付け方に確固たるルールはありません。そのため、「何となく」「気分で」段落分けする筆者も多くいます。入試問題に選定された文章は、そうした「曖昧な段落分け」がされているものは使われていないと言いたいのですが、必ずしもそうとは限りません。形式段落分けは読解の重要な入口ですが、絶対ではないことを知っておきましょう。

 

4.注意すべき点

 (1)入試問題には、文書の1部が抜粋されている。

 残念ながら、ほぼすべての入試問題は、文章の一部が取り上げられているにすぎません。したがって、筆者が緻密に構成した論理構成の全体像が見えない状態で読解せざるを得ないのです。

 (2)論理的でない文書もある

 論説文こそ論理的であってほしい、いやそうであるはずだ。誰でもそう思いますよね。しかし残念なことに、必ずしもそうとはいえないのです。

論説文の大半は、専門の学者の手によるものです。しかし、その研究分野の第一人者がすなわち文章の達人であるとは限りません。高い業績で知られる学者が、一般向けの文章はあまり上手ではない、そんなことは普通にあるのです。論理構造が崩壊しているとまではいいませんが、「何か読みにくいなあ」と感じることはしょっちゅうです。

 

※過去にこんな記事も書きました。

peter-lws.hateblo.jp

それでも読解しなくてはなりませんので、文句を言う前にがんばるほかありません。

 (3)そもそも論説文ですらない

 いちおう「論説文」「説明文」のジャンルに分類されている文章のほとんどが、ただの「エッセイ」にすぎない場合がとても多いのです。小中学生くらいを対象として書こうとすると、どうしてもエッセイ風になってしまうのが原因かもしれません。

「地球が誕生してから現在までの年数は、隕石の放射性年代測定に基づき、4.54 × 10の9乗 年( ± 1%)と推定されている。今後は、太陽が赤色巨星に変化する過程において地球軌道まで到達するのはおよそ50億年後と推定される。」

「地球の年齢はおよそ45億歳から46億歳とされています。隕石を調べることで計算できました。そして、地球の寿命はあと50億年とされています。太陽が巨大化して飲み込まれてしまうんだね。つまり、人間の寿命が87歳だとすると40歳くらい、それが今の地球の年齢なんだ。」

どちらも同じことを述べていますが、明らかに後者はエッセイです。

エッセイですので、論理性を多少犠牲にしても読みやすさを優先させることも多いのです。このことが逆に「筆者の主張」をわかりにくくする要因といえるでしょう。

よく考えてみれば、「これは説明文」「これは論説文」「これは科学エッセイ」などといった分類は、筆者側からすれば意味をなしません。彼らが書きたいように書いた文章を、こちらが勝手に分類しているにすぎないからです。

あまりそのあたりにこだわらないほうが読解はしやすいかもしれません。