中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

詩の読解に強くなるには?

生徒たちは、全員が詩の読解が苦手です。

小学生も中学生もです。

私は今まで、詩の読解が得意で詩を読むのが大好きな子どもに遭遇したことはありません。

しかし、テストには出るのです。

今回は詩の読解について考察してみたいと思います。

1.詩は重要か?

生徒たちは口をそろえて言います。

「詩って意味不明!」

「何言ってるのかわかんない!」

「別に詩なんか読めなくてもいいよ」

その気持ちはわかります。

人生に詩がなくてもかまわない。そう思っているのですね。たしかに、詩が人生になくても、別に困らない気がします。論説文なら知識が得られますし、小説はおもしろく読めます。でも、詩は子供たちに響かないのです。

大切でも重要でもないと思うもの、しかも訳がわからないものの読解をしなくてはならないのですから、彼らから悲鳴があがるのは当然です。

そこで、彼らにこんな話をしました。

「欧米では、作家や詩人は尊敬される存在なんだよ。」

もちろん、日本においても尊敬される存在のはずですが、どうも日本のそれと欧米のそれは感覚が異なるような気がするのです。

欧米の小説で学校が扱われているものを読んでいると、詩の朗読を学校でやる場面がよく出てきます。学年から1人だけ選ばれて、保護者や町の有志があつまるイベントで朗読をする、そんな場面もありました。確かに詩は声に出して読むべき文学形態ですので、黙って字面を目で追うより、吟じた方がはるかに本質に迫ることができます。もしかして人前で声に出して読むという習慣が無いことが、日本における詩の普及の妨げとなっているのかもしれません。

だいぶ以前に見たアメリカ映画に、トム・クルーズ主演の「カクテル」という映画がありました。内容もストーリーもB級娯楽映画といった趣で、面白いですが芸術の香りはありません。ただ、印象的だったシーンとして、こんなものがあります。映画のラストシーンで、トム・クルーズ演じるバーのバーテンが、カウンターに仁王立ちして、「俺はバーテンダー詩人だ!」と叫んで、詩のようなものを即興で吟じるのですね。それを客が熱狂して盛り上がる、そんなシーンです。正直意味不明で、頭の中が「?」となりました。もしかして、詩人ってステイタスが高いのか? そんな風に感じたことを覚えています。

私の知人で、作家がいます。正確にいうと、「作家を名乗ってみたいアマチュアの作家もどき」(本人談)です。自費出版で1冊出しただけですので。

そんな知人が、アメリカに旅行に行ったとき、入国審査で職業を聞かれて「novelist」と答えたというのです。まあ、半分冗談のつもりでしょう。すると、係官の態度が変わったというのですね。「どんな本を書いてるんだい?」と急に食いついてきたそうです。「どうやらアメリカでは作家は尊敬される存在らしい」というのが知人の意見でした。もしかしてそういうことはあるのかもしれません。

 

さて、話を詩に戻します。生徒たちに対して詩の重要性を中世ヨーロッパの吟遊詩人の歴史から説き起こして説明してみたこともありますが、やはり響きませんでした。

 

2.俳句を作ってみる

そこで私がとった手段は、生徒たちに俳句を作らせることでした。

理由は3つあります。

〇短いので手軽に作れる

〇テレビ番組の影響

〇詩の基本がつまっている

とくにテレビの影響は大きいです。生徒たちには「プレバト」という番組をすすめています。俳人夏井いつき先生の切れ味の鋭い批評が小気味いいですね。

さて、その気になった生徒たちに、俳句を作らせてみるのです。すると、彼らの表情が変わります。最初のうちは、「あんなの楽勝!」といった声があがっているのですが、やがてそれどころではなくなります。あまりガチガチにルールで縛るのもつまらないので、とりあえず季語を入れることと字数を守ることだけを課して自由に作らせますが、なかなか上手くはいかないものです。せっかく作った俳句ですので、お互いに披露しあいます。好き勝手な批評が飛び交い、懸命に自分の俳句を弁護する生徒もいて、皆楽しそうです。

そうです。俳句なんて、自由によめばいいのです。

そうやって自由に作らせているうちに、生徒たちにある種の「欲」のようなものが出てくるのですね。みんなや先生をアッといわせたい、ほめられたい、そうした欲です。

そこで次のステップにすすみます。

 

3.俳句をよむ

 まず、松尾芭蕉の作品を読んでいきます。もちろん声に出して。そうすると、わずか17文字の中に広がる世界の大きさに皆息をのむ思いです。それはそうですよね。

しかし、自分で作ってみる、という経験を経た後でなければ、芭蕉の偉大さは理解できないのです。

さらに、小林一茶正岡子規といったビッグネームの俳句を次々と読ませていくと、やがて彼らなりに好みが分かれていくのですね。

ある生徒が言いました。

「僕はやっぱり芭蕉だな。」

「どうしてだい?」

「だって、芭蕉の句は、絵画なんだよ。」

なかなかよいことをいいますね。

「僕の作った句のダメなところがわかった気がする。絵じゃなかったんだ。」

こうして頭にうかんだイメージをどう17文字にまとめるか、考え始めたのです。

ここまでくれば、もう大丈夫な気がします。

「詩」という高尚な芸術を鑑賞・読解するのではなく、書き手とイメージを共有しようとする姿勢があれば、きっと詩の読解が苦手でなくなると思うのです。

 

まず俳句から。

 

これがお勧めする「詩の読解に強くなる」第一歩です。

 

※文章読解についてはぜひこちらもお読みください。

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