中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

文章読解についての考察



今回の記事では、文章読解について考察してみます。

考察といっても、あれこれととりとめのない話になりそうな気がします。ご容赦ください。

1.本好きな子

お子さんは本好きでしょうか?

私の中の「本好き」な子の定義・特徴とはこうです。

〇勉強の間の休憩時間に本を開く

〇電車通学の際には、鞄に2冊本がある(読み終わったときの用心)

〇注文した料理が運ばれてくる間に本を開く

〇学校では、配られた国語の教科書の文章を全て先に読んでしまう

〇読書中に声をかけられても気が付かない

〇本を読んでいて電車を乗り過ごしたことがある

〇図書館勉強ができない(本の誘惑に負ける)

〇電車で他人が読んでいる本のタイトルが気になる

〇テスト前や忙しい時につい本に手が伸びる

〇書店や図書館で、まだまだ読んだことが無い本に囲まれると眩暈がする

まだまだありそうですが、このへんで。

実は、全て私の学生時代に当てはまります。

或る時など、本に夢中になり過ぎて、降りる駅を3回素通りしました。

1回目 座って本を読んでいて乗り過ごし、次の駅で降りる

2回目 逆方向の電車に乗り、座って本を読んでいて乗り過ごし、次の駅で降りる

3回目 座るのは危険と思い、ドアの横に立って本を読んでいて乗り過ごす

4回目 本を鞄にしまい、無事降りることに成功

これではほとんど病気です。

中高生時代には年間500冊は読んでいたと思います。

それでも6年間でたった3000冊ですからね。

まだまだ本好きを名乗るにはおこがましいレベルです。

 

小中高大の学生時代が一番読書ができる時期です。

大学生の時は、楽しみだけの読書よりも、読まねばならない読書が主流になってしまうのですが、それでもまだ「自分なら生涯縁が無かった」であろう本との出会いがあるのが楽しいところです。

しかし、社会人になると、仕事に関連した書類ばかり読むようになり、また単純に忙しくなり、純粋に読書を楽しむ時間ががっくりと減ってしまいますよね。

しかも、少しずつ「本の世界に没頭できる感性」が摩耗していくような気がします。

旅行の時など、「今回の旅行では、ぼんやりと読書を楽しむぞ!」と張りきって本を数冊持っていくものの、結局一冊も読まずに帰ってくる、そんなことばかりです。

やはり、小中高の時代にできるだけ本を読むしかありません。

さて、本をたくさん読めば、読解力はつくのか?

もちろんYESです。

巷ではこう言われています。

「本を読むから国語が得意になるのではなく、国語が得意な子が本好きなのだ」

全面的に賛成です。

ここで「国語が得意=読解力がある」と置き換えてみます。

「本を読むから読解力が上がるのではなく、読解力がある子が本好きなのだ」

ううむ、ちょっと違う気もしますが、でも、真実だと思います。

実は、この定理?には欠陥があります。

本をどれだけ読むのか、読書量という観点が抜けているのです。

「本を少し読んだからといって読解力が上がるのではなく、読解力がある子が本好きなのだ」

これなら納得できます。

結論はもう出てしまいました。

「本を大量に読むことで読解力は上がる」

 

みなさんもたぶん納得してくださると思います。

 

2.どれくらい読めばよいのか?

 そもそも読書は趣味の領域です。

読解力を上げるためにどれくらい本を読むべきなのか、この問いがそもそも本末転倒な気がします。

とはいえ、やはり気になります。

いろいろ調べてみても、これといったデータは無いようですね。

「読解力」が数値化できない目安である以上、これは仕方ないかもしれません。

かわりに、こんな情報を見つけました。英語の多読に関する指標です。

 

英語の多読では、年間100万語というのが一つの目安だというのです。

1ページは300語くらいですので、3000ページくらいでしょうか。おそらく小説にすると10冊くらいだと思います。

つまり、年間10冊、というのが多読の目安ということのようです。

 

これは、母国語ではない英語を学ぶときの目安です。

たしかに学生時代に英語を学んでいたころを思い出しても、こんなに読んではいませんでした。

なるほど。だから私の英語力は伸びなかったのですね。

そういえば、周囲には英語の原書を楽しそうに読んでいた友人がいましたね。とくにミステリー好きの友人は、お気に入りの作家の本が日本語に翻訳されるのを待ちきれなくて英語で読んでいました。

 

とりあえず、英語で10冊なら、母国語である日本語ではその十倍くらいは必要なのかな、と思います。

 

3.読書量と読解力に相関関係はない?

 

色々調べていて、ベネッセの発表したデータを見つけました。

読書量は読解力に結びつかない、というのですね。

いままで書いてきたことを全否定されてしましました。

いったいどういうことなのでしょう?

ベネッセ調査より作成

(ベネッセ教育総合研究所 「読解力」を育てる総合教育力の向上にむけて―学力向上のための基本調査2006より)

 

なるほど。たしかに、本を4-5冊読む子どもの読解力(偏差値)が最も高く、それ以上の読書量だと逆に下がる、という結果が見て取れます。

 

一見すると常識と矛盾する結果にも思えます。

ただし、「本を読み過ぎて勉強時間に食い込んでいる」という子の存在を示唆するデータのようにも思えます(かつての私だ!)。

 

また、一般には日本の大学生の読書量は4年間で100冊、アメリカの大学生は400冊、ハーバードの大学生は1000冊、などと言われています。

しかしこれについても、否定的なデータもまた存在します。

 

おそらくこれは、読書の質の問題なのだと思います。

低質な読書、つまり「読み流すだけ」で何も残らない類の読書をいくらしたところで読解力はつかないことを示しているのでしょう。

 

小中学生が読むべき本についてはこちらの記事をぜひお読みください。

peter-lws.hateblo.jp

また、入試と読書の関係は以下に書きました。

peter-lws.hateblo.jp

 

4.そもそも「文章読解」って何?

やはりここは定義を確認しておきましょう。

手元の辞書(新明解国語辞典)をひくとこあります。

「文章を読んで、その意味・内容を理解すること」

新明解にしては当たり前すぎてちょっとがっかりしました。

私なりに捕捉説明するとこんなかんじでしょうか。

論説文・・・筆者の伝えたい情報・メッセージを正確にとらえること

物語文・・・筆者の構築した物語世界を自己の中に再現すること

とくに物語文は厄介です。

読者によって解釈は多様であり、そもそも物語文はその多様性を許容するからです。

しかし、「読解」と「読書」は異なります。

「読解」とは、読書の多様性を排除し、筆者の考えに迫る行為といってもよいでしょう。

例えば、小説を読む際に、作者のプロフィールや書かれた状況を知ることでより深く理解できるようになるという考えがあります。それを否定する考えもありますね。小説を読むときには、小説に書かれてあることだけを手掛かりにすべきだ、それこそが作者の望みだ、という考えです。

どちらももちろん正しいと思います。

しかし、こと読解となると、情報は多くあったほうが理解は深まるのも事実です。

とくに日本の小説には「私小説」というジャンルがあります。作者の経験や人間性が色濃く反映されていて、作者の分身のような主人公が登場するのが特徴です。こうした小説は作者のプロフィールを知っていたほうが理解しやすいですね。

 

5.どうして読書量と読解力は比例するのか?

物語文の場合です。

物語文の読解が作者の物語世界の再現にあるとするなら、文章中のヒント・手がかりからそれを推測する力が必要となります。

そのためには、実生活における体験の量がものをいいます。

わかりやすく、恋愛小説を考えてみましょう。

読者に恋愛経験が豊富であれば、登場人物の言葉・しぐさなどの表現からその気持ちを推理することなどたやすいでしょう。

しかし恋愛経験ゼロでは、推理しようもないことはわかると思います。

ではどうしたらいいのか?

たくさん恋愛するのも良い手ですが、それより読書をたくさんすればよいのです。そこには人類の歴史が織りなしてきた多彩な恋愛模様が凝縮する形で書かれています。実際に経験しなくとも、追体験することが可能です。

いわば読書が実体験の代替物としての役割を果たすのですね。

小説を読むというのは、登場人物に思いを馳せる行為ですからね。