生徒の書いてくる記述答案で最も多くみられるのが、「曖昧」な表現です。
答案に自信が無いのか、それが癖になっているのか、曖昧な表現を多用するのです。そのため文章の「言いたいこと」がぼんやりとしてしまい、得点を下げることになるのですね。おそらく生徒は無意識にやっているのだと思います。
今回は、「意図的に」あいまいな表現が多用されている文章を素材として、曖昧な表現について考えてみたいと思います。
1.非論理的な文章の例:慶應湘南藤沢
以前紹介した慶応湘南藤沢の国語の問題を再び題材とします。
かなり意図的に曖昧な表現が使われ、非論理的な文章としてあるからです。
問題文は次のようなものでした。
「甘いモノって、誘惑は強い割にだいたい体に悪いじゃないですか。肥満とか生活習慣病にもつながるし。だから、国なり県なりで税金をかけて、値段を上げていけば自然と国民・県民の健康が増進されるって思うんですよ。子供の体の生育に必要な部分もあるでしょうから、料理に使う砂糖とかは例外として、生活習慣病の人の食生活をある程度追い駆けてみて、どう見てもいけないなぁと思うような品目だけでいいんですよ。課税しましょう。」
それでは丁寧に見ていきます。
(1)曖昧な表現で読者をご誘導する文
「甘いモノって、誘惑は強い割にだいたい体に悪いじゃないですか。」
冒頭のこの1文を読んだだけで、後の文章を読む必要が無いことがわかります。
どういうことか説明しましょう。
①「甘いモノ」
まず、この表現です。実に曖昧ですね。
甘いモノなど世の中にたくさんあります。フルーツ・ケーキ・和菓子・ジュースなど挙げだしたらきりがないほどです。
具体的な説明抜きに「甘いモノ」と書き出すことで、読者はそれぞれ自分が考える「甘いモノ」を頭に思い浮かべることでしょう。
それが狙いです。
②「って」
次にこの表現です。
「犬は人間に忠実だ。」「犬って人間に忠実だ。」この2つの文を比べて考えてみることにします。
前者は、断定的で疑問の余地がありませんが、後者は「(犬という生き物)は人間に忠実だ」という意味となり、犬全体を漠然と指し示すことで曖昧でありながら一般化していることになっています。
さらに、読み手に対して同意を強制するニュアンスが付け加わっていますね。
後に付け加える「・・・・じゃない(ですか)」と組み合わさると、このような表現になります。
「私は映画が好きだ。」
「私って映画が好きじゃない?」
そんなの知らんがな!とつっこみたくなりませんか。
あるいは、こんな表現はどうでしょう。
「私はかわいいから、」
「私ってかわいいから、・・・」
さすがに自分で自分のことをこう表現する人はいない(おそらく)と思いますが、前者があくまでも本人が自称しているだけなのに対して、後者はかわいいことが周知の事実であるようなニュアンスが感じられますね。
さらにひどい表現になると、
「私って正直な人じゃない? だから・・・」
と、押し付けられるような言い方も見聞されます。
他にも、「男は子供っぽい。」「男って子供っぽい。」この2つを比べると、前者には「子供っぽくない男を知ってるよ。」と反論の余地がありますが、後者は「まあ、だいたいの男はそうだね。」となってしまうところがポイントです。
ストレートに「甘いモノは」と書かずに「甘いモノって」とすることで、「甘いモノ全般は、だいたいにおいて・・・」とぼかした表現となり、反論しづらい文とする作戦なのです。
④「誘惑は強い」
甘いモノ=誘惑は強い。
この言い方もずるい表現です。
世の中には私も含めて甘いモノにさほど興味がない人間も多いはずですが、甘いモノ好きの人にとっては、「甘いモノ=誘惑は強い」という指摘には大いにうなずけることでしょう。
このように、多くの人が同意するであろう内容を入れることで、この後に書かれる内容にも同意しやすい空気が醸成されていきます。
こうして筆者の術中にはまっていくのです。
⑤「割に」
「Aの割にBだ。」これは、Aから予想されるものよりBが異なっている、つまりAとBに相反する内容が入らなければいけない表現です。
「一所懸命働いている割にお金がたまらない。」
「勉強しなかった割に良い点がとれた。」
「彼は年の割には背が高い。」などのようになります。
そうしてみると、「誘惑が強い割に体に悪い。」というのは、誘惑が強いものは体に良いはずなのに悪い。」という意味となり、誘惑が強いものは体に悪いという常識(お酒・タバコなど)に反していることになります。
これが意図的なエラーなのかはわからりません。
⑥「だいたい体に悪い」
「だいたい」という曖昧な表現を加えることで、反論しづらくなっています。
何の数値も根拠もなく、「だいたい」と言われても、あくまでも主観にすぎないのですよね。
「男は馬鹿だ」
「男はだいたい馬鹿だ」
前者には、「それはあなたの偏見でしょ?」と反論が可能ですが、後者になると、馬鹿な男と馬鹿でない男の比率のデータで反証しない限り、反論は不可能です。
それが狙いです。
⑦「・・・じゃないですか。」
同意を求める表現ですが、押しつけがましさが何とも気持ち悪い表現です。
さきほど説明した、「〇〇って」とワンセットで使われることが多いです。
文法的にもマナーからも不適切な日本語表現であることは言うまでもありません。
「ですか」の部分は、断定の「です」に疑問の「か」をたした助動詞としても、「じゃない」はなんだ?
おそらくは「ではない」の口語表現と思われるますが、「ではない+ですか」の組み合わせも間違っています。
この、「~じゃないですか。」のような表現を多用する人とはあまり話をしたくないなあ、と思います。
無理やりこの1文を言い直すとこうなりました。
「チョコレートやアイスクリームのような甘いモノは、誘惑が強い上に体に悪いと思われます。」
なんとか日本語的にはましになってきました。
しかし、それでも何の根拠も示されていないという根本的な問題は残ります。
筆者の個人的な感想を述べた文章に過ぎません。
つまり、もともとの文章は、筆者の主観に過ぎないものを、いろいろと技巧を凝らすことでもっともらしく見せかけていた、というわけですね。
(2)論説文に見せかけたエッセイに注意!
上述したように、この文章は、一見論説文に見せかけてはいますが、エッセイです。
では、エッセイと論説文の違いは何でしょう?
◆説明文・・・事実を述べた文章
◆論説文・・・筆者の意見を述べた文章
◆エッセイ・・・筆者の気持ちを書いた文章
説明文と論説文は似ているのですが、そこに筆者の主張が前に出ているかどうかの違いがあります。
論説文の読解については以下の記事をごらんください。
そして、もちろんエッセイは論説文とは異なります。
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
いいですねえ。随筆の本質を、わずか1文でまとめています。
ここでやっかいなのが、「論説文風エッセイ」の存在です。
そもそも論説文とエッセイの違いは、「筆者の主張」を書くのか、「筆者の心情」を書くのかにありますので、筆者が自分の心情を主張と勘違い(あるいは確信犯?)してしまうと、読み手が混乱するのです。
見分け方は3つあります。
◆過剰な一般化・・・自分の体験にすぎぬものを、一般的な事象とする
◆曖昧な表現・・・・たぶん無意識のうちにごまかそうとする心理が働くのでしょう
◆断定的な表現・・・そのわりには、妙に断定的な物言いが目立ちます
2.「など」を使うのは要注意
あいまいな表現の筆頭にあげられるのが「など」です。
生徒達はこの表現が大好物です。あらゆる場面で「など」を使いたがります。
Q:豊臣秀吉の行った刀狩りの目的を述べよ。
思わずスルーされがちですが、私は見逃しません。
「一揆などとは何だ? 他に何を防止した?」
「兵農分離などとあるが、他に何をすすめた?」
Q:円高の影響について説明せよ。
A:「円の価値などが上がり、輸入品の価格などが下がるので輸入には有利となるが、輸出などには不利となる。」
「円の価値以外に何が上がった?」
「輸入品の価格以外に何が下がったんだ?」
「輸出以外に何に不利となるんだ?」
このように指摘すると、もちろん生徒達は答えられません。
考えて「など」を使っているのではなく、なんとなく「など」を付けることが習慣となっているのです。
さらに深読みすれば、「など」をつけることで曖昧に焦点をぼかし、減点から逃れようと画策しているのかもしれません。
生徒にはこんな話をよく出します。
君が花子さんに告白する場面で、
「僕は花子さんなどが好きです。」なんて言うか?
ここははっきりと、
「僕は花子さんが好きです。」だろ!
さらに続けます。
「僕は花子さんの笑顔などに惹かれました。」はどうだ? これでは花子さんはもやもやするぞ。
「僕は花子さんの笑顔や誰に対しても優しいところなどに惹かれました。」 これなら花子さんはきっとOKだ。
「など」を使うなら、2つ以上の例をあげること。
そのうえで、「これ以上例をあげなくてもわかってますよね?」という場面で「など」を使いなさい。
でも、これを言ってはダメ。
「僕は花子さんや夏子さんなどが好きです。」
論理記述としては正解だが、人としては不正解だ!