41.平安時代という時代
京都へは、だれもが1度ならず訪れると思います。街のどこを歩いても、歴史と遭遇するような町ですね。もう私など、何度行っても大興奮状態です。
過去と現在がクロスする場所、京都を楽しめるようになるには、平安時代について学ばねばなりません。つまり、歴史好きになるかどうかの分かれ道が平安時代だと思います。
歴史を学ぶ京都への旅については、こちらをご覧ください
2.板書
3.摂関政治
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
やはり平安時代の授業は、優雅にこの歌から始めたいですね。
ご存じ、時の権力者、藤原道長が詠んだ歌です。満月のように欠けることのない自分の権勢を誇った歌として知られています。
実際には、歌が詠まれたのは満月の翌日、十六夜だったことから、この歌に別の意味があるとする解釈もあるようですが、細かいことにこだわりすぎると、歴史がつまらなくなっていきます。ここは素直に説明します。
この歌が詠まれたのは、道長の三女の威子が後一条天皇の后になったことのお祝いの席でした。
すっかり良い気分になった道長が即興で詠んだとされ、周囲は返歌を求められます。
まあ今の私たちが見ても「なんて傲慢な歌だ!」と思われる歌ですので、周囲の貴族達が困ったことは想像に難くありません。
その時、右大将の藤原実資が、「この歌に返歌などできようもない。ただ皆で詠もう」と言い、皆で吟詠したそうです。忘年会で酔った社長の無茶ぶりをうまくかわす有能な部長、といった絵柄が浮かんでしまいますね。
この藤原実資という人物は、有職故実に通じることから賢人右府と呼ばれたそうで、道長の9歳年上の親戚です。このエピソードは、実資の残した日記「小右記」にあります。
授業では、摂関政治の権力の基盤を、いくつかに整理して説明します。
ここがきちんと理解できると、院政によって摂関政治が衰えていく理由もまた理解しやすくなります。どちらも入試では記述として頻出項目ですね。
4.国風文化
遣唐使の廃止によって生まれた国風文化もまた記述問題として頻出です。
かな文字を答えながら説明させるというのが定番ですね。
両方を詳しく語り過ぎると時間が無限に必要になりますので、生徒の反応をみながらどちらかを詳しめに語ります。
まあ言ってしまえば源氏物語は男女の恋愛模様ですので、小学生にはあまり語りたくないですね。中学生だと食いつきは素晴らしいですが。そこで、清少納言の知性と感性にスポットをあてることになります。
枕草子の第280段、「雪のいと高う降りたるを」の話など、私の大好きな部分です。
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子参りて、炭櫃に火おこして、物語などして集まり候ふに、と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。
人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この宮の人にはさべきなめり。」
と言ふ。
清少納言の自慢せずにはいられない性格がうかがえます。私にはとてもかわいい女性に思えるのですが、かつて同意してくれた生徒は一人もいません。
元ネタとなった漢詩は、中央のエリート官僚だった白居易(白楽天)が江州に左遷されたときに詠んだものです。
この漢詩もすばらしい。
できれば漢詩を板書して吟じたいところですが、ぐっとこらえます。受験など無視して、そういう授業をしてみたい欲望に時々かられます。
5.平将門
将門については、いつも丁寧に説明します。地方武士の誕生と成長を理解するのに最適な人物だからです。藤原純友の話もしたいところですが、どちらか一人となると、入試によく出てくるほう、将門になりますね。
5.尾張国郡司百姓等解文
この資料は、入試頻出です。当時の地方の乱れを反映しているため、知識問題だけではなく、記述問題の題材としても使われます。
6.奥州藤原氏
まず生徒から出る質問、「なんで名前に衡の字ばかりつくの?」
確かに。
いわゆる欧州藤原氏4代は、藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡の4人で、生徒はそこまで覚えておけばOKです。しかし、奥州藤原氏の系図を見ると、「衡」だらけです。
国衡・正衡・忠衡・隆衡・通衡・頼衡・俊衡・兼衡・師衡・季衡・経衡・・・・・・。
もう眩暈がします。
一部抜粋しただけで、見事にヒラヒラしていますね。
系図を見ていると、前九年の役・後三年の役の登場人物がたくさん出てくるのですが、何ともぐちゃぐちゃした戦いですし、中学受験では重要ではありません。
藤原清衡の母親である有加 一乃末陪(ありかいちのまえ)という女性に興味がわきますね。夫と父の敵である清原武貞に、斬首された夫の遺児を抱えて嫁いだのですから。この幼い遺児は武貞の養子となります。この子が後の奥州藤原氏開祖である藤原清衡なのですね。当時7歳です。清衡の名前がいつからつけられたのかは不明ですが、想像するに、義理の叔父である武衡からとったのでしょうか。
どうやらその後、「衡」の大流行がはじまったようですね。
私は見たことがないですが、30年前のNHK大河ドラマ「ほむらたつ」が奥州藤原氏を描いていたそうで、有加 一乃末陪も出ていたと知人の大学の先生に教えてもらいました。
さて、だいぶマニアックな話に走ってしまいました。そこは重要なところではありません。
重要なのは、奥州藤原氏の栄華の根拠です。
〇金山・・・岩手と秋田の県境に金山があります。ここの金が、奥州藤原氏の繁栄を支えました。
その他にも、良質な馬の産地であったことも理由の一つでしょう。
さらに、もう一つ考えたいことがあります。
それは、中国との交易です。
津軽半島の西側に、「十三湖」という地名が見えます。ここは、かつては「十三湊(とさみなと)」とよばれる良港で、大陸との交易の拠点として栄えました。
鎌倉から室町時代にかけて、地元の豪族安東氏が日本海を舞台に大規模な交易で栄えたことは知られています。それ以前の平安時代にも交易路があったことは十分考えられると思います。