中学受験のプロ peterの日記

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自習に役立つ 社会科板書大公開 日本史06 鎌倉~室町時代

 鎌倉幕府の滅亡から室町時代についてまとめてみました。

いよいよ鎌倉幕府が滅亡します。

 鎌倉幕府滅亡の原因は、記述問題の定番中の定番です。しっかりとマスターしておきたいですね。

 

1.板書

板書 鎌倉~室町時代

今回の板書はこのくらいにまとめてみました。

2.元寇

bunka.nii.ac.jp

元寇といえばおなじみの史料「蒙古襲来絵詞」は宮内庁の所蔵です。文化庁の「文化遺産オンラインサイト」をご覧ください。


 小学生なら日本側からみた元寇について、中学生なら中国側から見た元寇について理解しなくてはなりません。

 まず単純に考えると、元が日本に服属を求める書と使者を送ってきたのに、それを幕府が無視したために元が攻めて来た、とこうなります。

実に5度にわたって書が送られてきました。

さて、元が執拗に日本に使者を送ってきた理由としては、単なる領土拡大を目的としたと考えることもできますが、最後まで元の支配に抵抗していた南宋の存在を無視するわけにはいきません。

元は南宗を攻略するためにも、日本をおさえておきたかったのですが、日本は南宋との関係のほうを重視したのでした。

しかし、南宋は1029年に元により滅ぼされてしまいます。

二回の元寇の間のタイミングでした。

 

 日本が元寇を退けられた理由

従来は、嵐(台風)のために元軍の船が沈んだからとされていました。いわゆる「神風」というやつですね。

しかし、2度もタイミングよく嵐になったというのはあまりにもご都合主義すぎます。


 文永の役

11月後半ですので、台風と考えるには無理があります。

不利な戦いをしたが、一夜明けて朝になると博多湾には元軍の姿は皆無になっていた。

ここまではそうでしょう。

夜の嵐でみな沈んでしまったのだ。

これはあやしいです。

元の目的は日本の服属ですので、元軍の圧倒的な力を見せつければ目的には適います。

いわゆる「威力偵察」に近かったのではないでしょうか。

ところが、この時期の玄界灘は海の難所です。

急いで作らせた高麗船は嵐への耐性が低く玄界灘で多くの船が沈んでしまった。

このあたりが真相でしょうね。


 弘安の役

弘安の役については、8/15ですので、台風がやって来たと考えるのが自然です。

それに加えて日本の準備や御家人の活躍もありました。

1.関東の御家人まで動員した
2.戦い方に集団戦法を取り入れた
3.海岸に防塁をつくった
4.ゲリラ戦をしかけ、湾内の船を個別に撃破した
5.元の攻撃部隊が2つに分かれており、連携がとれていなかった
6.元軍兵士の士気や体力が低かった

嵐に加えて、このような理由が考えられるでしょう。


 元寇の影響

〇恩賞が与えられなかった御家人の幕府に対する不満が高まった

中学入試レベルなら、これで十分です。

しかし、中高一貫校生の中学生なら、もう少し掘り下げていかなくてはなりません。

 

 得宗とは

得宗というのは、北条氏の嫡流、本家のことですね。

北条時政が初代執権となってあと、9代にわたって続きます。

北条時政 → 北条義時 → 北条泰時 → 北条時氏 → 北条経時

 → 北条時頼 → 北条時宗 → 北条貞時 → 北条高時


もともと、北条氏による執権政治は、執権と、泰時が設置した評定衆という有力御家人達による合議制で政治が行われていました。

しかし、時頼が執権の位を幼少の時宗が成人するまでの間、一時的に北条長時にゆずり、自らは北条家の当主として権力を握ります。

これ以降、北条氏得宗家による政治が行われるようになります。

これを得宗専制といいます。

元寇のような戦時には、この得宗専制が有効に機能します。

全国の御家人に対する指揮命令系統が強化されたと考えられるでしょう。

しかし、そのことが元寇後の御家人の不満につながります。

恩賞ももらえない、九州の警備に駆り出される、戦費の借金に苦しむ、おまけに得宗専制では、御家人が不満を高めるのももっともですね。

また、合議制をなくしていたために、御家人の不満が北条得宗家に集中するという皮肉な結果をまねきます。

元寇により北条氏による得宗専制はすすんだが、幕府の弱体化もすすんだ。

専制政治の強化が、必ずしも政府や国家の強化を意味しない。現代のロシアや北朝鮮を見るとうなずける話ですね。

実は、幕府には貞時の外祖父である安達泰盛という有力者がいました。もう一度政治体制を合議制に戻そうともくろんでいた人物です。

しかし、それを阻止しようとしたのは、得宗家につかえる御内人のトップ、内管領平頼綱です。

この平頼綱の陰謀により、安達泰盛は滅ぼされてしまいます。これが霜月騒動です。

邪魔者を排除することで得宗専制は強固なものになりましたが、次の代で結局幕府は滅びてしまうのですね。


3.後醍醐天皇による倒幕

後醍醐天皇というのも、なかなか波乱万丈の人生を送った人物ですね。

倒幕の試みに2度失敗して隠岐に流されながらもあきらめず、ついに倒幕に成功した人物です。

しかしながら、社会情勢の変化を読み誤り、天皇親政を失敗した人物でもあります。

南朝という、初めから成功の見込みがないにもかかわらず、しぶとい抵抗をつづけた人物とみてもよいでしょう。

私はいつも、後に英雄に祭り上げられた楠木正成や、冷徹な足利尊氏についてよりも、この後醍醐天皇という人間くさい人物に焦点をあてながら解説をすすめています。


4.室町幕府

ここは、鎌倉幕府室町幕府を対比させながら整理していきます。

とくに重要なのは、守護と地頭の関係の変化です。

地頭を支配下におさめ、守護が大名化していく過程を説明します。


5.足利義満

室町時代の問題で再頻出なのが足利義満です。

3つの項目に整理しましょう。

 (1)日明貿易

倭寇を抑える目的で勘合が使われたこと、朝貢貿易の形式であったことを学びます。

とくに、朝貢の形式だったことは重要です。

これは、日本が明に服属していたことを表すからです。

東アジア~東南アジアは、明の庇護のもとに発展していましたので、日本もそこに組み込まれたことになります。

いわゆる冊封朝貢関係ですね。

ちなみに、15世紀に統一された琉球王国もまた、同様の冊封朝貢関係を明と築くことで、大きな利益を上げていました。


 (2)北山文化

北山文化・東山文化、金閣銀閣、義満・義政、これらを混ぜた正誤問題は、入試問題作成の先生の大好物です。
実に多く出題されています。

混乱を防ぐために、ここは2回に分けて講義をしていきましょう。

まずは、北山文化金閣について語ります。

さらに観阿弥世阿弥の能についても語るのですが、能は生徒の興味を全く惹かないですね。

そういう私も、能の魅力を本当にわかっているとはいえませんので、無理もない話です。


 (4)南北朝合一

ここはさらりと。

もともと無理があった南朝ですので。

じっくり語り出すと長いです。

後嵯峨天皇からはじめ、持明院統大覚寺統の両統鼎立について話さねばならなくなります。中学入試においては、そこは重要ではないと思うのです。過去にも出題はありません。

※と従来は言いきれたのですが、最近持明院統大覚寺統が短文選択問題レベルで見かけられるようになりました。

またしても!

こうして徐々に出題知識が増えていく、よくない傾向ですね。