実際の授業で使っていた社会科の板書を公開
これから、不定期にはなりますが、私が実際の授業で使用していた板書案を少しずつ公開します。
実際に授業を行う先生の参考というよりは、家庭学習をしている生徒、とくに海外で孤軍奮闘している受験生の思考の整理に役立ててほしいと思います。
◆板書のスタイルと目的
私が授業の板書で心がけている点はただ一つ、一回の授業で黒板1枚とすることです。
黒板を何度も消しながらチョークまみれになって大量の板書をする先生も知っています。
ご苦労様だなあ、と思いますが、本人の充足感は高いとしても、実際の効果は高くはありません。
板書の目的は3つあります。
(1)授業のあらすじを常に見せておくこと
授業の時間中ずっと、教師の背後にあらすじを見せておきます。もちろん説明にも使用します。そのことで、生徒の頭に映像の情報としてその日の授業内容が焼き付けられます。
後日授業を振り返ったとき、「ああ、あの話は、黒板の右下のあのあたりに書かれてあったな。」と想起できるようになったらしめたものです。
(2)板書を書き写すことで記憶につなげる
かならず板書をノートに写し取らせます。
とにかく生徒は黒板を写すのが遅いものです。
その様子を観察すると、おもしろいことがわかります。
遅い生徒ほど、板書を1文字ずつ書き取っているのですね。
例えば「卑弥呼」という語句を書くとき、黒板を見たあとノートに「卑」と1文字、次に黒板を見てから「弥」、それから黒板を見てノートに「呼」と書き取ります。
これでは遅いのも道理です。ひどい生徒になると、漢字のへんとつくりをばらばらに書いていたりします。無限に時間がかかるわけです。
そこで、こう声かけをします。
「単語ごとに写し取りなさい。」
まずは黒板を見て単語を把握。
一瞬後にノートに単語を記入。
この一瞬だけでも短期記憶させることが板書を写し取らせる最大の目的です。
社会科の授業で出会う単語は、ほとんどが初対面の単語です。まずはこの一瞬記憶から、学習がスタートしていくのです。
もちろん、漢字で書くことが重要です。
どんなにICTが教育現場に浸透しようと、この板書の効果に代わるものはありません。
授業のワークシートのようなプリントを配って、空欄に穴埋めさせながら授業をすすめるスタイルもよく見かけますが、私は推奨しません。
少なくとも初出の内容は、古典的でも板書の写し取りから入るのが遠回りのようで一番効果的なのは経験上わかっているからです。
(3)教師のペースづくり
決められた授業時間内に説明を終了させるためには、適切なペース配分が必要です。
そのためにも、今日の授業内容のあらすじが黒板にあることで、教師は残り時間を考えながら過不足なく説明を終えることができます。
実際には、授業で語りたい内容は、授業時間の10倍以上あります。
面白いエピソードや中高生になってからも役立つ深い背景など。
しかし、入試に向けて限られた時間の中で、最大限の指導を考えたとき、それらの話は削っていくしかありません。
では、実際の授業で使っていた板書案をお見せしましょう。
◆板書案 日本史01 【国のはじまり】
まずは日本史から。
中学入試に向けて初めて歴史を学ぶ生徒を対象とした授業です。
想定学年は5年生~6年生です。
想定授業時間は60分です。
塾や学習法にもよりますが、中学入試に向けて歴史を学び始めるのは、早くて5年生の夏、遅くとも6年生になる直前の春休みくらいだと思います。
黒板のサイズから逆算すると、縦に20行が限界です。
今日の内容は、全部で29行におさまりましたので、実際の板書では、少し大きめの文字で2段16行で書きます。
また、私の板書では基本的に白チョーク1本しか使いません。
教師が色チョークを使い分けると、生徒もそれに対応して筆箱から色ペンを何本も取り出して書き分けることになります。
このタイムロスが無駄だからです。
(1)歴史を学ぶ意義
やはり、この授業ではここから語りたいと思います。
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」
1985年にヴァイツゼッカー西ドイツ大統領の行った有名な演説の一節ですね。
ただ漫然と、入試に重要だから、というだけで歴史を学ぶより、どうして歴史を学ばなければならないのか、しっかりと考えてから学び始めてほしいと願うからです。
もちろん、生徒たちはポカーンとしてこちらを見ているだけです。
彼らの心には全く響いていません。おそらく何も理解できていないでしょう。
でも、いいんです。
私も合格請負人には違いありませんが、せめてこれくらいの矜持を持って講義に臨みたいですから。
(2)縄文時代の扱い
古典的な歴史教育では、縄文時代=貧しい、なぜならば狩猟採集生活のため食料が安定して入手できなかったから、と教えます。
弥生時代に稲作がはじまってから、定住し安定した生活が営めるようになったと。
もちろん、間違いではありません。しかし、当時ですら、米作の開始については縄文時代にさかのぼるのるのが定説となっており、最近では縄文後晩期の3~4千年前という考えが主流のようですね。
また、縄文時代が貧困の時代だったかについては、諸説入り乱れています。
当時の人骨に飢餓線(ハリス線)が見られることから、食料が満足に得られず生きていくのがやっと、というよりまともに生きてはいけなかった時代である、という考えが昔は根強かったように思います。
しかし、屈葬の習慣や火炎土器に高度な精神文化が見受けられることから否定的な意見も多くありました。
こうした論争のようなものは、1992年からはじまった青森県三内丸山遺跡の発掘調査により決着しました。
このあたりを授業でどう扱うかは悩ましいところです。
中学生くらいであれば、こうした定説が定まらないところが歴史の面白さである、というスタンスですすめるのですが、小学生では少々厳しい。まずは定説(学校教科書に書いてある)をきちんと教え、それゆえに三内丸山遺跡が画期的な発見だった、とまとめることにしています。
(2)邪馬台国論争について
これも語り過ぎが禁物のテーマです。
だって、おもしろいですもの。
江戸時代の新井白石の頃からの論争の歴史をたどっているだけで、授業3コマ分などあっという間に吹っ飛んでしまいます。
ここは心を鬼にして、一通りの説明に抑えなくてはなりません。
時間が許せば、奈良県の纏向遺跡&箸墓古墳についても触れてみます。邪馬台国の最有力候補地ですし、卑弥呼の墓の最有力地でもありますから。
また、弥生時代の時期についても、教科書通りに教えます。
(3)中国の歴史書について
これは入試必須のテーマです。少し時間を割いて、丁寧に扱います。
当時の日本の様子については、遺跡による状況証拠と、この中国の歴史書の内容から類推するしかないわけです。
〇漢書地理志
まずこの3つは必須です。そして板書するかどうかは時間にもよるのですが、こちらも教えます。もし時間がなければ次回回しですが。
古事記・日本書紀に記述されている初期の天皇についてはその実在がわかっていない(たぶん創作)のですが、 この21代雄略天皇は、中国の歴史書・日本書紀、古墳の鉄剣、それぞれに同一人物の記載があることから、実在が証明されている稀有な例です。
学生時代に遺跡発掘のアルバイトまでしていた私にとっては、もうワクワクするような楽しい時代なのですが、いかに生徒に私の興奮を伝染させるかについてはいつも頭を悩ませています。
とくに奴国の金印の話は面白いですね。福岡の博物館で実物を見ると、その存在感に圧倒されます。志賀島の金印公園にも足を延ばしましたが、実際の発掘場所は不明で、「だいたいこのあたりか?」というところに記念公園が作られています。
実際の発掘場所かどうかはともかく、玄界灘を見晴らしながら古代に思いを馳せるのには絶好の場所です。海鮮丼も美味しいですし。
この歴史の初回の授業では、とにかく「歴史を学ぶって、楽しいぜ!」という雰囲気を全身から発散させることを心がけています。
教師が楽しそうでなければ、生徒が授業を楽しめるはずはないですよね。