※この記事の初出は2024.01.15です。2025.01.10にUPDATEしました。
意外に思われるかもしれませんが、私は学園ドラマ・映画を見ません。
とくに教師が主人公のものは嫌いです。
なぜなら、そこに出てくる「教師」「授業」が気になってしかたがないからです。
とくに「金〇先生」は大嫌いです。
職業病ですね。
ところで、皆さんのご記憶の中に、思い出に残る先生はいらっしゃいますか?
残念ながら、私にはそうした出会いはありませんでした。もちろん、小学生から大学生までの学生時代の様々な段階において、素晴らしい先生方に教えていただいていたはずですが、どうにも印象にあまり残っていないのですね。おそらくは、私が真面目な生徒ではなかったことが理由でしょう。だから、何十年後までも親交が続いている先生がいる、などという話を聞くと、羨ましく思えます。
さてこの記事で書きたいのは、そういう「人生の師」のような教師像についてではありません。
「塾」という、極めて狭い社会における、「良い教師・良い授業」について考察してみたいのです。
合格させる教師・授業
私の仕事は、お預かりした生徒を志望校に合格させることです。いわば「合格請負人」であるという自覚があります。
能書きはどうでもいい、綺麗ごとはいらない、とにかく「〇〇中学に合格させてくれ」という保護者の思いに応えることが仕事なのです。この仕事を始めてからの10年くらいは、その思いだけで授業を行っていました。
〇自身の担当教科の生徒の平均偏差値が、他教科の平均偏差値を上回る
〇自身の担当クラスの生徒平均点が、上位クラスの平均点を上回る
まずは、日々の授業で、この2つの目標達成を目指しました。
この頃の私の授業は、相当怖かったそうです。別に生徒に対して感情的に怒ったりしたことはありませんが、生徒が全力で集中することを要求していたからですね。さぼる・怠ける・手を抜く、そうした兆候を生徒が示しでもしようものなら厳しく指導していました。
成果は上がりました。
もちろん合格については私の力などたかが知れています。まずは本人の努力、そして家庭のバックアップ、それに加えて塾における4教科の指導、これらの総合力で決まるのですから。でも、口には出しませんでしたが、私の手柄だ、くらいに自負していたものです。
後年、この当時の教え子に再会したとき、言われたことがあります。
「先生、まるで別人だね。」
今とはそれほど雰囲気が違っていたのでしょう。
でも、こうも言われたことがあります。教え子の父親(実はこの父親自身が私の高校の同級生だったのですが)からです。教え子は最難関男子校→東大→弁護士となりました。
「息子が弁護士になりました。」
「それはおめでとうございます。凄いですね!」
「いやあ、先生のおかげです。」
「いやいや、そんなことはないでしょう。」
「あの時の厳しい指導で、あの学校に合格できたのが大きかった。」
これはうれしかったですね。もちろん本人の努力が全てですが、良いスタートを切る手伝いが出来たかと思うと、教師冥利につきるというものです。
無駄のない授業
塾における授業時間は限られています。その時間の中で最大限の効果を上げるためには、無駄にしていい時間など1秒もありません。
例えばテキストやプリントを配る際にも、配布時間をいかに短くするか考えます。授業準備として、B4サイズのプリントなら全て2つ折りにして、テキストとサイズをそろえ、テキストに挟み込んでおく、そんな工夫をするのです。これで数十秒~1分くらい稼げますね。さらに入試に不要な知識・問題は切り捨てます。「昔はよく出題されていたから」「もしかして出るかもしれないし」そんな漠然とした思いでする授業は時間を浪費します。来年の入試に出題されるはずの知識・問題だけを過不足なく授業で扱う、そのためには入試問題の研究も欠かせません。
そのような姿勢で授業に臨んでいた私にとって、授業延長をする教師は大嫌いでした。(今でも嫌いです) 前の時間の担当教師が3分延長すれば、その分私の授業時間が3分削られます。その3分で伝える予定だったものを伝えることができなくなるのです。また、こうして授業延長をする教師に限って、漫然とした無駄の多い授業なのですね。もし皆さんのお子さんが塾で習っている先生が授業時間を延長ばかりしている先生なら、「時間を忘れて熱心に授業してくれる良い先生」ではない可能性が高いでしょう。
入試問題の研究を欠かさない教師
中途採用の教師の採用を担当していたことがあります。
私の質問は決まっていました。
「今年の入試問題ではどの学校のどの問題に注目しましたか?」
これに即答できない先生はダメですね。
1月中旬、そして2月1日の入試本番を迎えると、とにかく早く入試問題が見たいものです。
「今年はどんな問題が出された?」という純粋な好奇心に加えて、
「扱わなかった問題が出題されて教え子が凍り付いたりしなかったか?」という恐怖心と、この2つが理由です。
前述したように、全ての知識・問題を授業で扱う時間はありません。塾の教師に必要なのは、「これは出ます」と言えることことではなく、「これは出ません」と言える覚悟なのです。大半の教師がここを勘違いしていますね。過去問を少しみれば、その学校で良く出されている出題傾向は何となくわかります。「〇〇中学はこれを良く出していますよ」「〇〇中学を受けるならこれを覚えておきましょう」こう言うことはとても簡単なのです。でも、「入試にはこれは不要です」というためには、膨大な過去問の分析・研究が欠かせません。その上で、過去には出題されたことがあるが来年は出されない・過去にも出題されたことがなく来年も出されない、と言い切るためには知識・経験に加えて覚悟が必要です。
もし自分の判断が間違っていて、教えなかった知識・問題が出題されてしまったら。その数点が命取りになるかもしれません。大げさでなく、生徒の人生を左右することになるのです。だからこそ、好奇心と恐怖心の二つをもって、まずは生徒が受験した学校の問題から解き始めます。だんだん幅を広げて、首都圏以外、難関校以外の学校の問題も見ていきます。数えたことはありませんが、毎年だいたい100校~200校の間くらいでしょうか。もちろん大半の問題は「基本的な」「面白味のない」「ありきたりな」問題です。しかし、思わずこちらが考え込んでしまうような良く練られた良問、鋭い切り口の出題があるから面白い。
こうした入試問題の研究をしない教師、これは私に言わせれば教師を名乗る資格はないとすら思っています。
授業時間を忘れさせる教師
私が心がけていたことがありました。それは、授業時間中に生徒に時計を見させない、ということです。
生徒がちらちらと時計ばかり見ている、ということは「退屈だなあ」「早く終わらないかなあ」と思っているということですよね。
なんだかそれは教師の「負け」のような気がするのです。60分なり90分なりを生徒の集中を途切れさせることなく授業を行い、「今日はここまで」と言った瞬間に、「ええっ!」「もう時間?」「もっとやって!」と生徒が不満の声を漏らしたら「勝ち」だと思っています。
まあこんな勝ち負けにこだわるあたり、私も大人になっていないですね。
また、私自身も授業中に一切時計を見ることなく、「今日はここまで」といった瞬間に腕時計を見て時間ぴったりだと、ささやかにうれしく思います。
こうした授業を行うためには、授業冒頭の導入部分が重要です。
授業前は、どうしても教室はざわついています。それをいかに短時間で集中学習モードへ切り替えさせるか。教師は大いに工夫をこらす部分ですね。
金のとれる授業
なんとも生臭い話で恐縮ですが、塾は公教育とは違い、安からぬ授業料を頂戴しています。生徒達も、学校が終わってからわざわざ電車に乗ったりバスを使ったりして遠くからも集まってくれています。そうした生徒達に、「今日は時間の無駄だった」「これなら家で勉強していても良かった」などと思わせるわけにはいきません。
授業に参加しなければ得られなかった何か
これを提供するのが、金のとれる授業=お金をいただくに値する授業だと考えます。
自分の非を認められる教師
公教育とは異なり、塾の教師には何の資格も後ろ盾もありません。偉そうに先生を名乗っていますが、それは生徒・保護者に「先生」と認めてもらうことではじめて成立する立場なのです。
だからこそ、教師は指導教科を熟知した無謬の存在としてふるまうべきだ、と考える教師も多いです。
でも、そんなこと不可能です。
もちろんそこが目標ですが、永遠にたどり着けない目標でもあります。
生徒の質問に即答できないことなんて、いくらでもあるのです。
その時の対応で、教師の資質が問われると思います。
A.適当な答(たぶん嘘)を言ってその場をごまかす
B.「そんな質問は重要ではない!」と切り捨てる
C.素直に無知を詫び、次回にきちんと説明する
もちろんCが正解です。だって知らないものは知らないのですから。調べて後日説明する他ないですよね。でも、残念ながらAやBの対応をする教師が多いのです。
自分の非を認めることができる誠実な教師、そうした教師に習いたいですよね。
生徒とともに成長する教師
最初から完璧な教師など存在しません。
いくら万全の準備をして臨んでも、そう計算通りにいかないのが授業です。
そこで、その反省を次に活かして成長し続ける教師、これが良い教師ということだと思います。
教師は生徒に育てられる
これが、長年の教師経験から私が得た教訓です。
浪人生専門の予備校のベテランの先生と話をしていたときです。大学受験に向けた豊富な知識と経験をお持ちですから、どんな授業をしているのか、いろいろ興味があったのです。
しかし、話をしていてどうにも違和感しか感じません。
「えっ、大学受験生相手なのに、そんなレベルの授業なの?」
そう感じたのです。
やがて理由が見えてきました。この先生が長年相手にしてきたのは、「大学受験に失敗した生徒」ばかりだったのです。別に東大や医学部を目指す予備校でありませんでしたので、言ってしまえば、「どこにも合格できなかったレベルの生徒」を相手にした数十年だったのですね。
同様の感想を、公立高校受験専門塾の先生と話をしていて感じたこともあります。とにかく授業は、楽しく盛り上げることを優先し、無駄話もたくさんするのだとか。
驚く私にこう教えてくれました。
「僕らが相手にしているのは、中学受験で優秀な層が抜けた後の生徒たちなのですよ。彼らは、厳しく指導すると来なくなるんです」
どちらの先生も、ある意味プロですね。生徒のレベルや要望をよく把握されています。
中学受験の世界観とは別物のようでした。
最期に、ダメな教師・授業の例をいくつかあげてみます。
ダメな教師・授業とは?
(1)生徒を見下す
レベルの低い教師に多いのですよ。やたらに乱暴な口調で生徒に接する教師が。
「こんな問題もおまえら解けないのか!」
「今まで何勉強してきたんだ!」
といった内容を、もっと品なく乱暴な口調で発する教師。
嫌ですね。
意味がわかりません。生徒だって一個の人格をもった人間です。しかも高い目標をもって学校の後まで勉強しようと集まってくれています。もしかして教師よりもよほど立派です。信頼は互いへの敬意から生まれるということをご存じないのでしょうね。
(2)何年も同じ予習ノートを使っている
塾によっては何年も教材が改訂されていません(そっちが普通)。したがって、1度予習をしてテキストに書き込んでおくと、その後何年にもわたって予習をしなくても授業が可能です。皆さんの学生時代にはそんな先生はいませんでしたか? 同じ授業ノートを何年も使っているため、ジョークまで同じという先生が。
しかし、教材が同じだとしても、目の前に座っている生徒は別です。社会も入試も変化しています。毎回予習をし直すのが当たり前だと思うのです。それこそが、高い費用と時間を費やして集まってくれている生徒達にたいする誠意だと考えます。
(3)惰性で授業をする
これは私自信、自戒をこめて考えていることです。長年教師をやっていると、良くも悪くも授業に慣れてしまうのですね。この慣れが効率につながる反面、熱意の感じられぬ授業にもなりかねないのです。さすがに初心に帰るのは難しいとしても、毎回の授業で「今日はこれだけは身につけさせて帰そう!」という目的をもって授業をしたいと思います。
最後に
結局のところ、塾の教師というものはサービス業に他なりません。「先生」と呼ばれ、「教師」を名乗っていても、学校の先生とは別物です。
いかにお客様=生徒に最善のサービスを提供するか、そこが全てです。
そして、サービス業を徹底したその行きつく先には、教育の片鱗が見えてくるのかな、とそう思っています。
だから私は、学校の先生が羨ましくてなりません。
「教育」の本質を追求できるのですから。
逆に言えば、「サービス業」に堕した学校は嫌いです。
最近増えましたね。
以前の記事でも良い授業について考察しています。ぜひご覧ください。