※本記事の初出は2023.12.09です。2024.11.29にUPDATEしました。
以前「良い教師」について記事にしました。
今回はその続編です。
たまたまポストに入っていた、とある塾のチラシを見ていて考えさせられたので、続きを書きたくなりました。
チラシにはこうありました。
「我々の仕事は授業ではなく点数を上げること」
完全に同意します。お金を頂く以上、生徒の点数を上げる→志望校へ合格させる、これが仕事です。そこで興味をもってチラシを隅々まで見たのでした。
わかるまで教える
「わかるまで教えるーこれが当塾の基本姿勢です」と書いてありました。
一見すると良さそうに思えるフレーズですね。
きっとこの塾では、生徒がわかるまでしつこく何度も何度も説明してくれるのでしょう。熱意のある先生像が浮かびます。
しかし、天邪鬼な私はこう考えてしまうのです。
それって、最初からわかるように教えればすむのでは?
算数・数学の問題にしても、社会科の問題にしても、生徒に最初に授業するときのことを考えてみます。
生徒のレベルはわかっています。どこまで理解できて、どこから理解できなくなるのか、日頃の授業で生徒の理解力がどの程度なのかは当然把握しています。
そこで、予習段階から、「こういう角度から説明してみよう」「こちらの解き方のほうが彼らにはわかりやすい」「前提となる知識を簡単におさらいしながら深く説明していったほうがよいな」といった具合に授業案を組み立てていくものなのです。さらに授業中の生徒の反応をみながら説明を変化させていくのです。
1度の説明で理解させられないとしたら、その原因は生徒ではなく教師にあります。
わかるまで教える教師より、わかるように教える・わかりやすく教える教師を私は目指したいですね。
理想の講師像について
チラシにはこうありました。理想の講師像とは、
〇自己犠牲を厭わない人
〇粘り強く努力する人
〇心底生徒を愛せる人
〇責任感と情熱のある人
〇教え心を持った人
これらを兼ね備えた人を求め続けているそうです。
これを見た私の率直な感想は、「ああ、まだこんな価値観がまかり通っているんだ」というものです。
自己犠牲を厭わない、ってどういう意味なのでしょうか?
自分の時間を犠牲にして仕事をする、そういう意味なのでしょうか?
昨今学校の先生のブラックな仕事環境が話題となっていますね。教員は残業代が支払われません。そのため、どれだけ生徒のために残業しても一銭にもならないのです。しかし、就業時間内に終わる仕事量でもありません。さらに部活の顧問などもやらなくてはなりません。
中学校の先生の1/3ほどが過労死ラインを超えて仕事をしているという調査もありました。少し前に、プールの水を出しっぱなしにしたことで損害賠償を請求された先生のニュースがありましたね。川崎市でした。たしか損害額の半分の95万円を請求されて支払ったとか。
そんな仕事まで先生がやらされているとは。学校はまさに先生の自己犠牲の上に成り立っているのです。
もちろん塾は学校とは違います。きちんと残業代も支払われます(たぶん)。
とはいえ、自己犠牲を強いる塾は嫌だなあ、と私は思うのです。
20年ほど前ですが、関西日能研の先生が過労死したニュースもありました。
もっとも私も若い頃には休みは2か月に1日だけ、授業と教材・テスト作成に追われて終電で帰宅できたためしがない、そんな生活を何年も続けていましたね。ある日出社したら、「月の仕事時間が〇〇時間を超えると過労死リスク」と書かれた新聞記事が机の上に置かれていたこともあります。同僚の誰かが、見るに見かねて置いたのでしょう。そんな私に言う資格はありませんが、今にして思えば愚かな自己犠牲でした。それで授業の質が上がるわけはないのですから。しかも、「俺がこんなに必死になってつくったテスト、何でこんな点数なんだ?」といった責任を生徒に押し付けようとする心理が生まれやすくなるのです。
そんな目の下に隈をつくった余裕のない教師に教わりたいですか?
教え心って何でしょう? これがよくわかりませんでした。
教える心=教えようとする心?
人に教えたいという欲求?
それとも教えるのに適した心ということでしょうか?
さっぱりわかりませんが、別に教師に「教え心」など不要な気がします。仕事なんですから。
私が一番嫌なのが「心底生徒を愛せる人」というところですね。
何でしょう、生理的な嫌悪感がするのです。
考えてもみてください。「心底生徒を愛せる」教師ばかりが集まっている塾にお子さんを預けたいですか?
教師が生徒を愛していようがいまいが、そんなことはどうでもいいです。プロとして的確な指導さえしてくれればよいと思います。
「情熱」もいらないですね。
往々にして、空回りした独善的な指導になるものですから。
ここにあげられた項目のうち、「責任感」と「努力」だけには同意します。別に教師でなくたって、あらゆる仕事をする上で当たり前の事柄です。
授業力コンテスト?
さらにチラシにはこんなことが書かれていました。
「各教室の授業は、巡回講師と呼ばれる教員経験者をはじめとした各界の有識者によって、プロとしての視点でチェック・評価され・・・」
ああ、なるほど。
この塾は授業をしている先生を信頼はしていないのかな?
これは信頼できる水準の講師が少ないということなのでしょうか。それとも万全のチェック体制を誇っているのでしょうか。
また、各界の有識者というのもよくわかりません。
さらに、各教室の授業をチェックするのは、言葉にするのは簡単ですが実現は非常に困難です。例えば1人の「巡回講師」が5校舎を担当すれば、週に1度は訪問が可能です。曜日を変えながら巡回するとして、数か月(校舎規模による)で全授業のチェックができそうです。もちろん4科目のチェックをするためには4名必要となります。50校舎なら40名!の「巡回講師」が必要になりますね。この塾の校舎数は500以上とありました。それでは400名? さすがに非現実的です。そんなベテランの先生を授業に入れずに「巡回講師」として使うなんて贅沢、普通はできません。いったいどうやって「プロとしての視点」でのチェックを実施しているのか、謎が深まります。
また、こうもありました。
「そうして研鑽した授業の集大成を試されるのが、毎年開催されるJ-1グランプリです。これは〇〇塾の講師による授業力コンテストで、講師は頂点を目指して・・・」
ああ、出たぞ、授業力コンテスト。
実は、だいぶ昔になるのですが、とある都市で開催された「全国塾講師授業力コンテスト」的な催し物に招待されて見学に行ったことがあるのです。地元の塾が主催したその大会には、全国から様々な塾の先生方が参戦していました。
そこで見た出場選手(講師)達の授業なのですが、まあひどかった。ノリと勢いだけの授業、間違いだらけの授業、こうしたものが横行していたのです。記憶に残っているのは、社会科の先生でした。1コマ分見させてもらいましたが、知識不足がはなはだしく、間違いだらけの授業なのです。間違いを指摘するメモ用紙がたちまち真っ黒になったので、途中でメモをとるのをやめたくらいです。今でも鮮明に覚えています。
「いいか、お前ら! 投票の秘密ってのはな、誰に投票したか人に言ったらいけないってことなんだ! AKBの総選挙で(当時全盛期でした)、お前誰に入れた? 俺は〇〇に入れた、そんなのはダメなんだぞ!」
ひどい間違いですね。生徒を「お前ら」呼ばわりするのも論外ですが、この調子で嘘を連発していました。
ちなみに、全科目全講師の頂点にたったのがその先生でした。
こうした悪夢のような思い出があるので、授業力コンテストと聞くと、反射的に身構えてしまうのです。
そもそも塾講師の授業に優劣などつけられるはずもありません。コンテストでは、緻密に構成された授業よりも派手なパフォーマンスが評価されてしまいがちです。このコンテストははたしてどうなんでしょうか。
(さきほど検索したら、私が見に行ったコンテスト、まだやっていました。「全国模擬授業大会 教育の力2024」とあります。まあ、これだけ続くというのはそれなりの理由があるのでしょう。もしかして先生のレベルも上がっているかもしれません。)
本当に必要なのは?
塾の教師に必要なものはいったい何なのか? 授業はどうあるべきなのか?
これについては、私なりに結論が出ているのですが、そこに至るまではだいぶ寄り道をしてきました。
(1)合格させる授業
最初に考えていたのはこのことでした。とにかく塾なんですから、合格させてナンボだろ! とまあ単純な思考ですね。そして合格に近づけるためには、とにかく徹底した授業スタイルで授業を行っていました。例えば、生徒に今月覚えてほしい知識をまとめたプリントを作り、それに基づく小テストを実施し、全員が満点をとるまでは時間無制限で繰り返す、そういったスタイルです。宿題も多く出しましたね。宿題をやってこない生徒は教室に入れないくらいのことは平気でやっていたような気がします。まあ今となっては絶対NGなスタイルです。当時は保護者もそうしたスタイルを求めていました。もちろんそれだけやれば成果はあがります。
しかし、次第にこのスタイルに疑問を持つようになったのです。もう少し違うやり方があるのではないだろうか、と。
(2)競わせる授業
生徒の成績を上げるのに効果的なのは競わせることです。生徒同士が競い合うことで、実力以上に学力が高まる、そうした競争原理を授業に取り入れるのですね。これはとくに男子に有効でした。男の子って単純ですからね。ただ、このやり方にも弊害はあります。競争から脱落する生徒というのが必ず生まれてしまうのです。脱落するのは自己責任だ、それくらいの冷徹な考えがないとこのスタイルは成功しません。私にはそんな冷たい考えは無理だったので、このスタイルもすぐにやめるようになりました。
(3)楽しい授業
次に目指したた方向性がこれでした。とにかく塾に来るのが楽しい授業、勉強をやる気にさせる授業が最高ではないだろうかと考えたのですね。もちろん「楽しい」授業といっても、遊びの要素があるわけではありません。授業内容を発展させて、生徒が楽しむ要素を盛り込んでいくのです。そのための予習・授業準備は大変です。また、楽しませることを追求するうちに、徐々に授業は変化していきました。
(4)わかりやすく面白い授業
とにかく生徒に考えさせるのです。様々な事象の原因・理由についても考えさせます。そしてそれを授業に取り込みながらわかりやすく展開していくようにします。わかりやすくて面白くためになる授業、家に帰ったら真っ先に親に報告したくなるような授業、これを心掛けました。この授業が到達目標の一つであるという考えは今でも変わりません。
(5)無駄のない授業
時間が足りません。入試までに教えたい内容はこんなにあるのに、それを教える時間が全く足りないのです。必然的に授業は無駄をそぎ落とすことになります。本当に必要なことを教えきる、そうした授業ですね。これも到達目標の一つです。
(6)アドリブが多い授業
今はこんなスタイルです。生徒によって理解度は様々ですし、毎年それも変わります。その日の生徒の反応次第で、教える内容を多彩に変化させていく、そうした授業が一番理想的だと思っています。しかしそのためには授業準備が無限に必要です。生徒の何気ない質問にも対応する必要もあります。
結論です。
塾の先生に最も必要なのは「学力=教科力」です。
全てはそこがスタートラインです。
最後に
言いたい放題書き散らかしてきましたが、このチラシの塾を貶める意図はありません。生徒数が数万人もいるようですので、こんなにも大勢の生徒が満足して通っている塾がそう悪いわけはないですね。
これは完全に価値観の相違なのです。
私には「教え心」もなければ「心底生徒を愛する人」でもないので、この価値観が理解できないだけなのです。
世の中には、自己犠牲を厭わない生徒愛に満ちた先生を求める需要があるのでしょう。
ずいぶん昔の話ですが、とある中学の入試日早朝に生徒の激励に行ったときの話です。ある塾では、試験を受けにきた生徒を並ばせて、塾長が一人一人にビンタをしていました。「気合を入れる」ということのようです。それを付き添いのお母さま方が囲んで笑いながら見ているのですね。「先生、相変わらずですね」とか言いながら。
わが子が殴られているのを笑いながら見ている母親たち。
まるで新興宗教の集会のようなその光景に私は粟立ちました。
需要があれば供給がある、そういうことなのでしょう。もっともその塾は今はもうありません。