中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

歴史のある私立中高一貫校 女子校編

伝統校とよばれる学校にはどんな学校があるのか、気になって少し調べてみました。

今回は女子校編です。

※どの学校も持ち上げる意図も貶める意図もありあません。また、私の調べた範囲にすぎませんので、他にもまだまだたくさんあると思います。

(東京・神奈川の学校をとりあげました)

 

伝統校の定義

 

とくに定義が定まっているわけではありませんが、何となくこのあたりが定義のようですね。

◆100年以上の伝統

◆戦前から続く学校

 

今から100年前というと、1924年です。

大正15年ですね。

ということは、明治・大正時代に創立された学校ということです。

さらに戦前という定義を考えると、それに20年ほどプラスされます。

 

私なりには、4世代説を考えました。

12歳で入学した生徒が、やがて子どもを30歳で産んだとします。現在の平均出産年齢は31歳ですが、40年前には25歳でした。

ここはわかりやすく30歳と仮定します。

創立初年度に入学した生徒を第一世代とします。

その30年後に入学してくるのが、第一世代の子どもたちです。これを第二世代と呼びましょう。

さらに30年たつと、第三世代が入学してきます。おばあちゃんと同じ学校に孫が入学するのですね。

そしてさらに30年後には、第4世代が入学してきます。

これで90年たちました。

ここまで生徒の世代交代が順調に進めば、伝統も確立したといえるのではないでしょうか。

 

常に新しい生徒達が入学して新陳代謝を繰り返し進化していく学校というのもあるのかもしれませんが、そもそも自分の子どもを入れたくない学校であれば、存続することはできないでしょう。

 

とある私立中高の教員をしている知人から聞いた話です。

「うちの教師達で、自分の子どもをうちの学校に入れたい教師なんて一人もいませんよ!」

宣言通り、知人の子どもたちはみな他の学校に進学しました。職員の子弟なら学費免除だったそうなのですが。

 

この知人の意見が極端だとしても、学校に対する評価が変わることは確かです。

 

年代順に紹介

それでは、主だった学校を列挙してみます。

創立年度や学校名に間違いがあったらすいません。私の調査・点検能力不足によるものです。

 

【明治時代】1868年~1912年

 

1870 フェリス女学院 (フェリス和英女学校)

1870 女子学院 (A六番女学校)

この2校が日本で最も古い女子校というのは万人が認めるところでしょう。

どの段階で創立とみなすのかは難しいのですが、両校ともHPで1870年を創立年としています。

野次馬的にはどっちのほうがより古いのかが気になりますが、数か月のことでしょうし、どちらでもよいと思います。


ちなみに、江戸時代から続くキリスト教禁止の方針が撤回されたのは1873年です。

不平等条約改正の交渉および視察を目的とした岩倉使節団が欧米を回ったさい、キリスト教禁止の方針に強く反発されたことがきっかけとなりました。

そう考えると、外国人居留地内とはいえ、かなり早いタイミングでの創立だったのですね。

 

横浜居留地は、横浜が貿易港としての歴史を持つことからわかるように、貿易商社の関係者が多く集まる居留地でした。東京では築地が居留地として開かれましたが、こちらは宣教師や教会堂、外国公館が多く置かれました。

だから、築地は、女子学院を始めとし、青山学院・立教学院明治学院雙葉学園等の発祥の地となったのですね。


1871 横浜共立学園アメリカン・ミッション・ホーム)

こちらの学校も設立経緯は似ています。アメリカ人女性宣教師3名によって設立されました。翌1872年には現在の山手に移転しています。

 

婦女子の教育に否定的だった時代に、こうしてミッション系の学校が教育に乗り出したことは大きな影響を及ぼしました。


1875 跡見学園 (跡見学校)

非ミッション系の女子校としては日本で最初の学校です。

跡見花蹊という優れた教育者によって創立されました。

幕末の安政6年(1859年)に父親が大阪で開いていた「跡見塾」を継ぎ、女性の指導をはじめています。やがて1870年には神田に私塾を、1875年には現在の血に「跡見学校」を開きました。

学校HPによると、この「跡見学校」が跡見学園のルーツです。

跡見花蹊は、日本画家および書家としても知られています。「跡見流」の書道を生徒は学ぶそうですね。

そういえば、2016年に、85年ぶりに制服をリニューアルしました。以前の制服は桜蔭に似ているジャンパースカートだったのですが、一新されています。

https://www.atomi.ac.jp/resources/pdf/pr/magazine/40/blossom40-2.pdf

 

1875 雙葉学園( 築地語学校)

1872年に修道女(シスター)によって寄宿学校が開かれ、その3年後に築地に女子の語学校として創立されました。ここが雙葉学園のスタートです。

ミッション系というとプロテスタントが多いのですが、こちらはカトリックです。

 

1877 立教女学院(立教女学校)

アメリカの宣教師、チャニング・ムーア・ウィリアムズにより1874年に立教学校(後の立教大学)が、1877年には立教女学校が創立されました。

こちらは、イギリス国教会の流れをくむ「聖公会」による学校で、プロテスタントに分類されます。

 

1881 白百合学園 (女子仏学校)

フランスの修道女により神田に設立されました。1884年に女子仏学校、1935年に白百合高等女学校となりました。カトリックです。

 

1881 東京家政大学附属女子 (和洋裁縫伝習所)

1881年に渡邉辰五郎が開いた和洋洋裁伝習所がルーツです。

1892年に東京裁縫女学校に、1948年に渡辺学園女子中高に、1949年に東京家政大学附属女子中高になりました。大学も中高も学校法人渡辺学園の経営です。

 

1884 頌栄女子学院 (頌栄学校)

1884年に岡見清致により頌栄学校としてスタートし、1964年に現在の校名になりました。実は岡見清致の叔父岡見清致は適塾福沢諭吉を江戸の蘭学塾講師として抜擢した人物であり、その縁で頌栄の開校式には福沢諭吉が駆けつけたということです。

岡見清致は米国長老教会宣教師により受洗していますので、この学校もプロテスタント系です。

 

1884 東洋英和女学院東洋英和女学校

カナダ・メソジスト教会婦人ミッションの最初の日本派遣宜教師マーサ・J・カートメルにより創立されました。プロテスタント校です。

 

1885 学習院女子 (学習院華族女学校)

京都御所日御門前に公家の教育機関として学習所が開講したのが1847年です。

その後、1877年に学習院の校名となり、共学校としてスタートしました。

1885年に、学習院より分離し四谷尾張町華族女学校が開設されましたので、学習院女子としてのスタートはここからです。

 

1886 共立女子学園 (共立女子職業学校)

 共立女子職業学校として、本郷東竹町の渡邉辰五郎裁縫私塾の一隅からスタートしたとあります。学校名の由来は、創立に携わった34名によって共同設立されたことにあります。

渡邉辰五郎といえば、東京家政大学創立者じゃないですか。こんなところでつながっていたのですね。

 

1886 捜真女学校( 英和女學校)

山手67番で宣教師の妻、シャーロット·ブラウンにより開校されました。1891年に校名が現在の校名となっています。


1887 普連土学園( フレンド女学校)

 フィラデルフィアキリスト教フレンド派の婦人伝道会によって派遣されたジョーゼフ・コサンド、サラ・コサンド夫妻によって創立されました。新渡戸稲造内村鑑三に誘われたそうですね。

漢字で「普連土」と書くと仏教をイメージしますが、もちろん違います。

「普(あまね)く世界の土地に連なるように」という意味です。

フレンド派は「クエーカー」とも呼ばれています。


1887 三輪田学園 (翠松学舎)

教育者三輪田 眞佐子が1887年に神田に開いた翠松学舎がルーツです。1902年に麹町に三輪田女学校を設立しました。


1888 香蘭女学校

麻布永坂でイングランド国教会E.ビカステス主教により設立されました。

イングランド国教会イギリス国教会)は、プロテスタントに分類はされますが、教会の設えや儀式等カトリック的な教派です。

 

グロスター大聖堂

これはイギリス国教会グロスター大聖堂です。

壮麗なゴシック建築ですね。

先入観なしにこの写真をみて、「これはカトリック? プロテスタント?」と聞かれれば、100%「カトリック!」と答えることでしょう。

 

カトリックプロテスタントの中間?と私は考えています。

 

香蘭は、1941年に現在の校地に移転しています。

校名の由来が変わっています。

与善人居 如入芝蘭之室 久而不聞其香 即与之化

孔子のことば、「芝蘭の交わり」の一節が由来だそうです。

芝蘭とは、霊芝と蕑のことであり、めでたい草とかおりの良い草を意味し、すぐれたものや人の喩えにされます。

「いい香りの漂う芝蘭を飾る部屋で過ごしているうちにその香りと一つになるように、良い友人や先生方と一緒に過ごす中でその人の価値観や立ち振る舞いを自然に身にまとっていく」

ミッションスクールなのに孔子なんですね。

もっとも欧名St. Hilda’s Schoolは、守護聖人ヒルダの名に因んでつけられたとのことです。

 

1888 東京女学館

この学校の設立経緯もすごいですね。


女子高等教育の必要性を痛感した内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり、澁澤栄一、岩崎彌之助、外山正一(東京帝国大学総長)、ジェムス・ディクソン(東京帝国大学英語教授)、アレキサンダー・ショー(聖公会司教)らを集めた「女子教育奨励会創立委員会」が作られます。その後北白川能久親王明治天皇の義理の甥)を会長にした「女子教育奨励会」が母体となり、「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を供えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指して永田町御用邸に設立されました。

 

由緒正しいとはまさにこの学校のことです。

明治初期の元勲の教育への意気込みが感じられます。

 

1890 神田女学園 (神田高等女学校)

東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)出身の竹澤里を初代校長として作られた学校です。

学校の公式HPには竹澤里の名前しかないのですが、もう少し調べてみると、松田秀雄(初代東京市長)、小笠原清務(礼法家)、角田竹冷(真平)(衆議院議員)が創立メンバーだったようですね。角田竹冷は跡見学校の理事も務めていました。

澁澤栄一を見るとわかるように、この時代には、政治家や実業家の実力者が多くの学校の設立に関与していたのでしょう。実際に関与したのか名誉職かはわかりませんが。

 

1892 豊島岡女子学園 (女子裁縫専門学校)

加賀藩士の妻だった河村ツネが、娘二人と始めた女子裁縫専門学校が母体です。

1904年には東京家政女学校と校名変更、1924年に 牛込高等女学校を併設しました。1947年に現在の校地に移転し、校名も現在のものとなります。

 

1897 和洋九段女子 (和洋裁縫学院)

堀越千代が創立した和洋裁縫女学院が母体です。名前の通り、洋裁教育が特徴でした。その4年後に、和洋裁縫女学校に改称され、和裁・洋裁に加えて、国文・漢文・習字・数学・英語・生花・割烹・教育学などの「和洋型教育」が展開されました。

堀越千代は盛岡藩士の娘でしたが、夫とともに教育に力を入れたようですね。

ちなみに1923年には堀越高等女学校(後の堀越高校)を創立しています。

 

1899 実践女子学園 (実践女学校・女子工芸学校)

教育家下田歌子によって明治32年に創設されました。この下田歌子という人物もすごい人ですね。

現在の岐阜のあたりの岩村藩士の家に生まれ、幼いころから漢詩や和歌に親しむ神童でした。明治に祖父(儒家)と父とともに東京に出ます。その後女官に抜擢され皇后・美子から寵愛されました。結婚し他の血、自宅で『桃夭女塾』を開講し、政府高官の妻に古典の講義を始めます。

夫の死後は華族女学校の教授となり、学監に就任。のちに学習院女子部の部長も務めます。

明治天皇の二人の皇女教育にあたり、2年間欧米女子教育の視察を行い、帰国後に中流階級の婦女子育成を目的として実践女学校および女子技芸学校を創立しました。

1918年には、板垣退助の妻・絹子に招聘されて、東京広尾の『順心女学校』の初代校長になっています。

 

1899 成女学園( 成女学校)

創立者吉村寅太郎です。

吉村虎太郎(寅太郎とも表記)といえば、土佐勤皇党の一員として坂本龍馬とともに活躍し、後に天誅組として暴れて掃討された人物がいますが、同姓同名の別人でした。同時代の人物ですから紛らわしい。

さて吉村寅太郎は、文部省から広島外国語学校校長や広島県医学校長などを務めた人物です。成女学校を創設したのは退官後ですね。

また、その後、東京女学館館長や日本体育会体操学校(現日体大)校長を務めています。

 

1900 横浜雙葉学園 (横浜紅蘭女学校)

学校のHPには、17世紀、フランスでニコラ・バレ神父がうち捨てられた子どもたちの尊厳を回復するための教育活動を開始したことに始まるとありますね。

やがてカトリック女子修道会が幼きイエス会として世界に広がりました。

1872年にマザー・マチルド等の修道女が横浜に上陸し、外国人女子教育および貧困児童養育事業を開始しました。
1900年に一般の子どもを対象に紅蘭女学校を始め、1958年に校名を横浜雙葉中学校・高等学校としました。

 

1901 日本女子大学附属 日本女子大学校附属高等女学校

牧師・教育家の成瀬仁蔵により設立されました。校地は三井財閥から寄贈され、設立発起人に西園寺公望の名があります。

ところで成瀬仁蔵は日本に初めてバスケットボールをもたらした人物だそうです。

 

1903 中村中学校・高等学校 (深川女子技芸学校)

実業家中村清蔵により、私立深川女子技芸学校として創立されました。初代校長は東京女子師範学校一期生の戸野みちゑです。

 

1903 山脇学園 (高等女子實脩学校)

⼭脇⽞・房⼦夫妻により⽜込区⽩銀町に實脩⼥學校として設⽴されました。3

⼭脇 ⽞は、ドイツで医学・法律・政治学等を修め、明治憲法の草案に関わり、行政裁判所長官を務めた人物です。独協学園の設立にも携わっています。

⼭脇 房⼦は、松江の女子師範学校を卒業後、英語を独学で身に着けました。ところで下⽥歌⼦⽒・鳩⼭春⼦⽒らと⼤⽇本婦⼈教育会を結成していますが、下田歌子は実践の創立者でしたね。

 

1904 鎌倉女学院 鎌倉女学校

漢学者・教育者の田辺新之助が創立。田辺新之助は共立学校(現開成)の校長を務めたほか、逗子開成の創立にもかかわっています。のちに、陸奥宗光の長男が理事長となっています。

 

1905 麹町学園 麹町女学校

鉱物学の学者だった大築佛郎が設立しました。

 

1905 女子聖学院 (女子聖学院神学部)

築地に、女子宣教師バーサ・F・クローソンによって創立されました。当初は、女子のキリスト教指導者を育成するための神学部でしたが、その後、普通部本科、家政学部が開設され、後に普通部本科が残って現在につながります。

 

1908 大妻中学高等学校 (大妻技芸伝習所)

教育家大妻コタカによって創立されました。和裁をベースとした良妻賢母教育が根底です。

 

1908 聖心女子学院 聖心女子学院

1801年にフランスで始まった女子寄宿学校が母体です。

 


1909 京華女子 京華高等女学校

1897年に磯江潤が創立した京華中学校が母体です。

 

明治期の学校を調べただけで力(&文字数)が尽きたので、大正・昭和(戦前)の学校は校名だけ紹介します。

 

【大正】

1914 神奈川学園( 横浜実科女学校)

1915 女子美術大学附属 (女子美術学校附属高等女学校)

1916 トキワ松学園常磐松女学校)

1922 十文字中学校・高等学校(文華高等女学校)

1923 東京家政学院( 家政研究所)

1924 桜蔭学園

1924 川村学園( 川村女学院)

1924 富士見中学校・高等学校

1924 文京学院 (島田裁縫伝習所)

1924 洗足学園 (平塚裁縫女学校)

1926 北豊島学園 (北豊島女学校)

1926 品川女子学院( 荏原女学校)

1926 瀧野川女子学園 (瀧野川実科女学校)

 

【昭和】
1928 駒沢学園女子( 駒沢高等女学校)

1929 恵泉女学園恵泉女学園

1931 光塩女子学院 (光塩高等女学校)

1931 村田女子 (村田女子計理学校)

1932 藤村女子 (井の頭学園女学部)

1935 鷗友学園 (鷗友学園高等女学校)

1936 東京女子学院 (芙蓉女学校)

1938 吉祥女子 (帝国第一高等女学校)

1938 湘南白百合学園 (乃木高等女学校)

1939 愛国学園 (愛国女子商業学校)

1939 東京家政学院東京家政学院高等女学校)

1940 富士見丘学園( 昭和商業実践女学校)

1941 大妻中野 (文園高等女学校)

1941 桐朋女子( 山水高等女学校)

1942 国本女子 (国本高等女学校)

 

伝統女子校の特徴

 

とくに明治・大正時代に設立された学校は大きくわけると3種類になります。

(1)ミッション系

(2)職業訓練

(3)その他

 

まず(1)ミッション系が多いのはわかります。当時日本では婦女子の教育が重視されていませんでした。そこにやってきたプロテスタントの宣教師やその妻たちの手によって女子教育を目的とした学校が開かれていったのですね。初期から英語教育に力を入れていたのも特徴です。そもそも設立者や教師も日本人ではないケースがほとんどでしたので、おそらく英語は必須だったのでしょう。

 

(2)職業訓練系の学校は、裁縫学校をルーツにするものがほとんどです。

当時の女性の必須のスキルといえば、裁縫でした。また裁縫の技術を身に着けることで自立もできたのです。

そうした裁縫の指導と合わせて、その他の教養教科も教えていったのでしょう。

 

(3)その他に分類してしまいましたが、跡見学園や三輪田学園のように、儒教漢籍、あるいは書道のような、旧来は男性のみに開かれていた教育を身に着け、その力で学校を設立したケースですね。

また、学習院女子や東京女学館のように、トップダウンで設立された学校もあります。