私は常識のある人間ではありません。さほど教養もありません。ただ、仕事柄、小中学生よりは少しだけましな程度です。
しかし、最近私の考えている「教養」「常識」の範囲がゆらいできたので、今日は徹底的に知識・常識・教養について考察してみたいと思います。
1.辞書によると
「知識」・・・ 知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容
とありました。まあこれは予想通りで問題ありません。
「常識」・・・一般人の持つ考え。普通の見解
こちらもまさに「常識」的な記述でした。少し細かいものでは、
われわれの間に共通の日常経験の上に立った知,一定の社会や文化という共通の意味のなかでの,わかりきったものを含んだ知
であるとか、
(英 common sense の訳語) 社会人として当然持っている、持っているべきだとされる知識・判断力。
となっています。まさに「常識」の範囲内の定義ですね。
ただし、これも深堀を始めると、いろいろ出てきます。小林秀雄の著書に「常識について」というものがあり、たまたま書棚にあった(だが読んではいない)ので開いてみましたが、5分で閉じてしまいました。学生時代ですら読み通せなかった本です。もう読む気力がわきません。まあここは変に追及せずに、「その人間が所属する社会・文化の中で当然知っていると思われる共通の知識」くらいにしておきましょう。
では、「教養」はどうでしょうか。
「教養」・・・学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。
こういったものが出てきました。なるほど。知識の幅広さ、心の豊かさ、理解力、そうしたファクターがどうやら必要なのですね。また、日本大百科全書を引用するとこうあります。
人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす。とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすいわれわれの精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが教養人の理想である。教養はとくに専門的、職業的知識を意識した場合、「一般教養」と表現されることがある。教養ということばの原語である英語やフランス語のcultureがラテン語のcultura(耕作)からきていることからわかるように、土地を耕して作物を育てる意味だったものを「心の耕作」に転義させて、人間の精神を耕すことが教養であると解されている。その「心の耕作」cultura animiという表現を初めて用いたのは古代ローマのキケロである。
おやおや、キケロまで登場しました。キケロ、懐かしい名前です。確か紀元前のローマの政治家&哲学者だったはず。
「人生から友情を除かば、世界から太陽を除くにひとし」
という名言がありましたね。(うろ覚えだったので検索して確認しました。)
このセリフからは、理想主義者の匂いがしますね。たしか学生時代に著書を読まされた気がするのですが、もちろん書棚にはありません。カエサルやオクタウィアヌスとからんだ人物ですが、政治的には失敗し、アントニウス に殺された(自害)、ここまでなんとか記憶を発掘しました。
どうやら私の「教養」のレベルはこんなもののようです。精進せねば。
cultureは普通「文化」と訳します。ということは、文化と教養は密接につながっていることがわかりますね。
私なりに、こう考えています。
情報(information)・・・記号・音声で伝えられる物事の様子
知識(knowledge)・・・情報+意味
知恵(wisdom)・・・哲学的知識
教養(culture/education)・・・心を豊かにする知識
教養の英語表現は2つありますね。cultureだと文化的な教養を、educationだと学ぶことで身に付いた教養を指すというのが私の理解です。
2.情報から知識へ
おそらくは、普通に生活していく上では、情報および知識があれば間に合います。単に「知ってる」「知らない」という二元論の世界なら、情報があるだけで間に合うのですが、実社会では不十分です。その情報をどのように使いこなすのか、そこまでが求められるからです。そう考えると、受験の世界というのは、情報を知識に転換(発展)させる過程といえるでしょう。
生徒にたまにする質問があります。
「日本において貨幣経済が普及したのは何時代だろうか?」
挙手させてみると、見事に分かれます。
奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・明治時代
それぞれに均等に手があがるのですね。なかには調子にのって「縄文時代!」と叫ぶ生徒や、「令和!」などという生徒がいますが、もちろん無視します。
挙手した生徒に理由を尋ねます。
「和同開珎が708年だから、奈良時代だと思った。」
なるほど、よく覚えていますね。ただ残念なことに、情報を入手しただけでその先へと進んでいないことは明らかです。そこでヒントを出していきます。
〇定期市が月3回開かれるようになったのは何時代か?
〇定期市が月6回開かれるようになったのは何時代か?
〇二期作が西日本で行われるようになったのは何時代か?
〇二期作が全国に拡大にしたのは何時代か?
〇馬借や問丸といった輸送業者が登場したのは何時代か?
〇借上・土倉・酒屋といった金融業が登場したのは何時代からか?
これらの質問は、6年生で歴史を学んだ生徒たちは全員が知っていて答えられます。つまりそうした情報は頭の中にあるのですね。しかし、その情報に意味を与えることができていないのです。
さすがにここまでヒントを並べれば、生徒たちも気がついてくれるのです。
情報が知識になることで、はじめて入試を解く準備ができるのです。
3.教養は必要か?
〇マクベス
2009年から2015年に東京大学総長だった濱田純一氏が発信したメッセージを引用します。
国立大学法人化後5年が経ち、佐々木元総長による法人化の制度整備、小宮山前総長による法人化のもつ可能性へのチャレンジがなされてきた基盤の上に、いま法人化による改革は、土壌づくりと「木を動かす」段階から、「森を動かす」段階に入ったものと考えています。法人化後の仕組みやその可能性を存分に活用し、東京大学の基底から湧きあがる力を最大化し持続可能なものとしていくという課題が、私の任期中のバックボーンです。この課題の確実な実現を目指して、行動シナリオを策定します。
これを読んだとき、私が真っ先に頭に思い浮かべたのはシェイクスピアでした。
みなさんは「マクベス」をお読みでしょうか?
『ハムレット』『オセロー』『リア王』と並ぶ四大悲劇の一つですね。武将マクベスが主を殺して王となったものの、結局は滅びる、とまあそんなお話です。シェイクスピアらしく、魔女の予言が出てきます。
獅子の心を身につけ、傲然と構えているがよい、誰が怒ろうと、誰が悩もうと、裏切者がどこで何をたくらもうと、いっさい歯牙にかけるな、マクべスは滅びはしない、あのバーナムの大森林がダンシネインの丘に攻めのぼって来ぬかぎりは。
新潮文庫の福田恆存訳からの引用です。いいですねえ、この格調高い文章。古い本については、翻訳もまた古い(=格調高い)ほうが私は好きです。書店でニーチェの「ツァラトストラかく語りき」を探していて(昔のものを捨ててしまったので)、「ツァラトストラはこう言った」を見かけたときは、ずっこけそうになりました。その横には、「ゾロアスターはこう言った」というタイトルの本もあります。もちろん正しいです。正しいですが、私の中ではやっぱり「ツァラトストラかく語りき」だなあ。
閑話休題、動くはずのない森が動くまでは滅びない。こう予言されたマクベスでしたが、最後には森が動きだし、マクベスは滅びることになります。
どのように森が動きだすのか、ここはぜひ読むことをおすすめします。
さて、そんなことを思った私は、濱田総長の「森を動かす」段階というのは、不可能を可能にする意が含まれているに違いない、とこう思ったのでした。
(しかし、どうもこれは私の勘違い・早合点だったようです。)
〇ヴェニスの商人
今、イスラエル・パレスチナで不幸な争いが続いていますね。当然生徒にも説明をするのですが、このパレスチナ問題を説明するためには、紀元前にさかのぼっての解説が必要となります。ユダヤ民族の歴史です。モーセによる出エジプト、紀元前12世紀のカナンの地への定住、このあたりから説き起こさないと、パレスチナ問題の根深さはわかりません。ディアスポラからシオニズム、そしてイギリスの3枚舌外交、そこまで話をすすめてはじめてイスラエル建国と度重なる中東戦争について説明できるのです。もちろんその途中にはナチスによる虐殺も語ります。
ヨーロッパにおけるユダヤ人の扱いに関連して、よくシェイクスピアの「ヴェニスの商人」をとりあげます。ユダヤ人高利貸しのシャイロックがこらしめられるストーリーですね。初めて読んだとこには気が付かなかったのですが、当時のユダヤ人に対する差別意識が横溢している内容です。そもそも借金を返せなかったのは相手なのですが、結局はシャイロックは全財産の半分を奪われ、おまけにキリスト教への改宗を命じられるという、よく考えれば理不尽な内容です。
しかし、生徒に「ヴェニスの商人の話を知ってる人?」と聞いてみたところで無駄です。小中学生は一人も読んではいません。いや、過去に一人だけ読んでいた生徒がいました。家にシェイクスピア全集(たぶん子供向け)があったと言っていましたね。
欧米では、聖書とシェイクスピアが基礎教養だといいます。会話にも演説にも、普通に引用されるようですね。ここまで書いてきて、私ももう一度聖書にチャレンジする気になってきました。過去何度もチャレンジして、わりと前半(というより最初のほう)で挫折してきた歴史があります。旧約はおもしろいところも多いですが、意味のわからぬ人物名の羅列も多いですからね。新約のほうは、文章構成が論理的とは言い難く、読み進めるのが苦痛です。みなさんはいかがでしょうか?
もし私同様聖書未読なら、阿刀田高の「旧約聖書を知っていますか」「新約聖書を知っていますか」はお勧めです。ものすごくわかりやすく、かつ面白く書かれています。もちろんこれを読んだだけで聖書を読んだことにはなりませんが。
〇耳なし芳一
ご存じ、小泉八雲の「怪談」に収録されて有名になった話ですね。琵琶を奏でて平家物語を語るのが得意な若き僧、芳一が壇ノ浦でわずか8歳で死んだ安徳天皇の墓所で平家の亡霊に連れ去られそうになる、という恐ろしいお話です。
平家物語の説明をすると、どうしても「琵琶法師」について説明が必要となります。そこで「耳なし芳一の話は知っているね。芳一は琵琶法師だったんだよ。」と一言で説明が完了するのです。いや、そのはずでした。
しかし、誰も読んだことが無いのです。時間がたっぷりとあれば物語を(それも思い切り怖く)語るところなのですが、残念ながらそんな時間の余裕などありません。
どうも昨今の日本では、高等教育から「教養」の2文字が消えつつあるとしか思えません。もちろん初等教育も同様です。
しかし、持っていても役には立たない知識、金は稼げない知識、必要とされない知識、そうしたものの多さが、人生の豊かさにつながっているような気がするのです。
例えば、古文や漢文は、死んだ言語です。今学んだからといって、何の役にもたちません(学問の世界を除いて)。しかし、そこには豊饒の海が広がっていると思いませんか?