今回は、登場しては消えていく、塾のお話です。
名付けて「栄枯盛衰塾物語」
大げさですね。
単に私が覚えている・知っている・聞いたことがある 程度の情報にもとづく雑感にすぎませんので、そのつもりで気軽にお読みください。
※例によって、特定の塾を持ち上げる意図も貶めるつもりもありません。どんな塾だって、そこを気に入り、そこで一所懸命勉強し、中学受験に臨む生徒達が大勢いるのです。それを外野の私ごときが批判することの愚は承知しているつもりですから。
塾の勢い=合格実績?
そもそも塾が「伸びた」「勢いがある」といわれるのには4つの要因がありますね。
A:生徒数が増えている
B:教室数が増えている
C:合格実績が伸びている
D:売上が伸びている
このうちDについては、上場でもしていないかぎり我々にはうかがい知れません。
Aについても、生徒数を公表している塾はありません。
ごく一部の塾では、合格実績を公表するときに、実際の卒業生数(小6在籍者数)を公表しているので、うかがい知ることはできます。
例として、神奈川エリアに5教室だけ展開している「啓進塾」を紹介します。
取り上げた理由はたった一つ、2012年からの合格実績&小6卒業生数を公開しているからです。
2020-21-22の変化が気になりますね。コロナかな? よくわかりません。
希学園(首都圏)も、3年分だけ見つけました。
関西の大手塾といえば、浜学園・希学園・馬淵教室・能開センターといったところでしょうか。その希学園が首都圏に進出したのは2004年、恵比寿教室(後に目黒に移転)でした。それから20年、教室数も7教室に増えましたが、20年たっても小6卒業生数がこれくらいということは、生徒募集に苦戦しているのかな。
もともと関西では、拘束時間の長さを売りにする「ハチマキ塾」が主流です。「ハチマキ塾」とは、私が勝手に命名しましたが、精神論・気合系の塾ですね。入試当日の早朝の灘中の門のあたりの激励光景は「異様」でした。
ただ、この「ハチマキ塾」は、首都圏では少数派(早稲田アカデミーくらい)です。昔は、入試日当日に校門前で生徒に教師がビンタをして気合を注入しているような塾も存在しましたが。最初にそれを目撃したときには目が点になったものです。完全に犯罪ですね。その塾はとっくに消滅しています。当たり前です。
他に卒業生数を公開している塾をさがしたら、ありました。サピックスです。
順調に伸びているといいたいのですが、頭打ちなのでしょうか?
代ゼミに吸収されて以降、校舎展開が鈍化していることと、低学年を中心にいくつもの校舎で募集を停止していたことの影響ではないかと思います。あるいは、グノーブルの登場にパイを荒らされている可能性もあるかもしれませんね。念のためグノーブルのHPを見てみると、2024年の卒業生数は689名とありました。11期生だそうです。 11年間で0名から689名ですからすごいですね。その間サピックスは千数百名増やしていますので、こちらはこちらで凄いです。
もちろんこれらの数字は、あくまでもHP公開されている卒業生数のみですので、低学年の人数推移は不明です。一般には、1年~4年生が募集期ですので生徒数は順調に伸びる(入塾数>退塾数)ものですが、その後は伸びは鈍化し、減少に転ずる(入塾数<退塾数)のが普通です。
基本的に、塾の売り上げ=生徒数 ですから、AとDはリンクしているはずです。
外部から見ていてわかりやすいのが、BとC,つまり合格実績と教室数ですね。
以前だったら、評判の良い遠くの塾・教室まで電車に乗って生徒が集まってきてくれていたのですが、東日本大震災をきっかけに、家から遠い塾は敬遠されるようになりました。さらにコロナ禍が追い打ちをかけます。
塾としては教室展開を広げるしかなくなるので、なかなか大変です。
単純に考えて、一つの大きな校舎に大勢の生徒・教師を集約するほうが経営効率は上がります。しかし、面で教室展開をすると、いくつもの問題が生じます。
◆教室を用意する経費
ほとんどの塾の教室は「間借り」です。本部校舎のようなところは自社ビルにできますが、さすがに全ての校舎を所有するのは非現実的ですね。
校舎には、教室以外のスペースも必要です。生徒数が60人規模の校舎を10校舎出すより、300人規模の校舎を2つ出すほうがはるかに合理的ですね。
◆人材の用意
規模の小さな校舎にも、4科目の社員の講師を置く必要があります。また、事務スタッフの社員も必要です。まさか全ての社員が新人というわけにもいきませんので、ベテランと新人を混ぜての配属となるのでしょうが、なかなか大変ですね。塾という業態は、優秀な人材を集めるのが生命線の業態だからです。
とある小規模塾で講師アルバイトをしていた大学生に聞いた話です。社員は教室長だけだったのが、その教室長が辞めた後に配属されてきたのは入社1年目の新人だったそうです。すでに3年目に突入していた自分が最古参だったとか。そこで「室長補佐」という名刺を持たされ、自分が教室運営を仕切らされたそうです。月に5000円の業務手当がついたと笑っていました。
塾の歴史~~覚えている範囲で~~
【黎明期】1950年代~60年代
まずはここから。
この時代には、中学入試をするのは、一部の小学生に限られていました。
◆代々私立中高に進学する家系
◆優秀すぎる子
◆地元の公立中に進学したくない子
こうした子だけが、中学受験をしていたわけです。
この子らはもともと優秀ですので、自宅での自学自習が可能です。そこで日曜日にテストだけを行う、いわゆる「テスト会」スタイルの日進がヒットしたわけです。
6年生なったら日進に入りテストで1年間鍛えて受験を迎える、そんなスタイルが基本でした。
そこに後発組として四谷大塚が登場します。
最終的にこの戦いは四谷大塚の勝利で終わります。その要因は2つあります。
◆「予習シリーズ」の完成
◆5年生・4年生の集客
1960年頃に四谷大塚の迫田文雄氏がつくったのが「予習シリーズ」です。この教材の登場によって、中学受験カリキュラムのスタンダードが完成したといえるでしょう。さらに日進が手をだしていなかった5年生・4年生へと触手を伸ばし、最終的に四谷大塚が大勝利を収めます。
ところで、迫田氏は1974年に四谷大塚を離れ、「秀優舎進学教室」という塾を開きます。この方の算数の授業は伝説的?だそうですが、とくにこの進学教室は規模を拡大することもなく消えたようですね。「あの(伝説の)迫田先生の塾なのにその生徒数!?」と驚いた記憶があります。「迫田先生が授業を始めると、どんなに騒いでいた生徒達も5分で全力集中した」という逸話を聞いたことがあります。それは凄い! と素直に感心したものでした。自分で実践してみると、生徒数が少ないと3分で集中モードに持っていくことはたやすいですが、生徒数が多いとやはり数人置き去りになる生徒は出てしまうものですね。
四谷大塚についてはこちらにも詳しく書きました。
◆公文式の登場
公文の登場も1950年代でした。創立した方のお名前が、「公文公(くもんとおる)」とおっしゃるのですね。
こちらは中学受験とは直接関係ないのですが、4・5年生から集団指導塾に通う生徒のうちの一部は、低学年で公文をやっていますね。昭和のそろばん教室の代替なのだと思います。
こちらは、とくに受験をするつもりでない小学生の学習系習い事の受け皿として成長したと思っています。
ただし、1993年の公文国際中学の登場は驚きでした。公文式の教育スタイルで学校? と思ってしまいましたが、学校の教育自体はいたって普通のようで安心しました。
ここの卒業生に聞いたところ、全国の公文式の優秀な生徒が推薦で入ってくるとのことで、この生徒達が大学実績も稼ぎ出していると言っていましたね。
【勃興期】1970年代~80年代
◆日能研の登場
日能研は、1953年にできた塾を母体としてますが、「日能研」としてのブランドスタートは1973年です。
神奈川エリアを中心とした積極的な校舎展開、広告戦略の巧みさ、運営システムの確立によって、たちまち集団指導塾のトップブランドの一つの地位を確立しました。
日能研に二つの運営法人があるのはご存じかと思います。
そのうちの「日能研関東」をみると、1973年に日吉でスタートし(だから古い関係者は日能研関東の教室のことを「日吉系」とよぶ)、2000年に新本社ビルをセンター北駅前に建設・移転、2002年には校舎数が50校、2022年には110校(うち集団指導校舎は49)となっています。
別情報では、日能研グループ全体で156教室となっていました。
いずれにしても、中学受験塾としては最大規模の塾といってよいでしょう。
また、中学受験を一般的なものにしたのも、日能研の功績だと思います。
電車内の広告、『シカクいアタマをマルくする。』 の登場は1986年だそうですね。あの広告は、個人的には好きではないのです。なぜなら、職業上正解を出す義務を感じて真剣に考えてしまうからです。電車内くらいぼうっとしていたいです。同様の理由で、テレビのクイズ番組もみません。テレビの解答者より先に正解を言わねばならぬ謎のプレッシャーを感じて疲れるのです。ちなみに、フジテレビのクイズ番組「平成教育委員会」の問題作成は日能研が担当していました。
【戦国期】1990年代~2000年代
◆早稲田アカデミーの登場
1975年に小さなサークルとして登場したようですが、「早稲田アカデミー」のブランドになったのは1985年です。
1989年には四谷大塚の提携塾となりました。その後積極的な生徒募集をすすめ、高校受験ではライバルだったSAPIX中学部を追い落とすことに成功します。
現在おそらくこの塾にとっての中学受験の仮想敵はサピックス(小学部)なのではないかと私は勝手に思っています。当初は早稲田系への合格実績を前面に出していた塾でしたが、今HPの合格実績を見ると、「御三家中〇〇名合格!」という巨大なフォントが躍っています。
◆SAPIXの登場
サピックスの創立は1989年です。
母体となったTAPという塾の教師陣がごっそりと抜ける形で設立されました。その時に生徒の優秀層も皆教師についてSAPIXに移籍したといわれています。その後TAPは生徒数・合格実績とも減らし続け、やがて栄光に吸収され、2004年頃には消滅することになりました。
その後、SAPIXからグノーブルが分裂するようにしてできました。講師陣の移籍も相次いだようです。まさに歴史は繰り返すというか、弱肉強食の世界ですね。
この時期は、四谷大塚・日能研・SAPIX・早稲田アカデミーの四強による争いが激化した時期といえるでしょう。
この4大塾の争いの中で、消えていった塾も多くあります。
例えば啓明舎。この塾は1980年代半ばに登場し、2022年まで塾長を務めた後藤卓也氏の手腕で難関校への合格実績を誇りました。新聞に教育コラムを連載していたのでご存じの方も多いと思います。ただ、合格実績を、合格者/受験者 で計算して広告していたのを覚えています。最初から合格しそうもない生徒には受験させない誘惑にかられるので危険な計算式だというのが私の考えです。
やがて2009年に「さなる」に買収され、2020年には「啓明館」と名前も替わりました。
「株式会社さなる」直営として啓明館2校舎が東京(新宿・小石川)にあるほか、「さなるグループ」の子会社である「株式会社中萬学院」運営の「啓明館」15教室が神奈川県に展開しています。
紛らわしいです。
合格実績も別個に出しています。
おそらくこの2種類の啓明館は教材も授業スタイルもまるで違うと思ってよいでしょう。
「東京啓明館」の合格実績を見ると、「圧倒的な第一志望合格率」とあって、「開成中3名(合格率100%)」「桜蔭中2名(合格率100%)」となっていました。どうやら伝統?はこちらに引き継がれたようですね。
学習指導会(しどう会)は、1975年に代々木で創立した塾です。
創立者の高橋隆介氏の母校だった武蔵中の合格に無類の強味を発揮していました。70名ほどもの合格者を出していたのです。現在のサピックスが59名ですのでそのすごさがわかりますね。しかしその後急速に衰退し、2005年に消滅しました。高橋氏が抜けたのが先か、衰退が先かまでは覚えていません。
ちなみに高橋氏の名前は、氏の教え子のつくった小規模塾「しどう会+1」の特別講師として載っていました。
桐杏学園という塾もありました。1973年設立です。開成に100名におよぶ合格者数を誇った塾ですが、2006年に学研、2011年に市進と身売りが続き、今や幼児教室に名前を残すのみとなりました。
山田義塾という塾も埼玉で権勢を誇った塾です。1960年代に開成出身の山田圭佑氏が作りました。積極的な他塾の買収もしかけ、1990年代には50教室以上、2万人以上の生徒数をほこる規模に成長しました。ただその頃から内紛がはじまったようで、1993年には「THE義塾」が、1997年には「SHIN義塾」が並立しました。傍から見ていても、何をやっているんだか、というかんじでしたね。2000年頃には消滅したと思います。
このようにして消えていった塾は枚挙に遑がないほどです。
消滅した塾で教えていた先生方はだいたい他の塾に流れるのですが、そうした先生に話を聞くと、「最後は変な壺(だったか浄水器だったか)を売らされたので辞めた」「校舎前の清掃からトイレの掃除まで全てやらされた」「午前中は近隣へのポスティング、午後は授業」などと悲惨な経験を語ってくれました。
塾の成長と衰退の流れ
参入障壁の低い塾業界ですが、創業→成長→衰退はこのようになっていると思います。
(1)創業
A:大学生が在学中or卒業後に創業
大学時代のバイトがそのまま本業になるパターンですね。最近ではあまりみかけません。中学受験塾黎明期のスタイルです。
B:大手塾の教師が独立する
これも多いです。一人で独立する場合も複数名で共謀する場合も。だいたいはうまくいきません。
独立はしたものの、10年持たなかった塾を多数見てきました。最初の数年は、「元〇〇塾教師」の看板が有効なのですが、なかなかそれも続かないということなのだと思います。
結局のところ、実力がある先生が独立するケースが少ないからでしょう。そう考えるとサピックスやグノーブルは希少な成功例かもしれません。
そういえば、関西の希学園も、1992年に老舗の浜学園から分離して成功した例ですね。
(2)成長
A:第一成長期
創業した教師の授業力・指導力・カリスマ性などに惹かれて生徒が集まります。これを第一成長期と名付けました。ここまでは比較的簡単に到達します。いや、到達できければ、そもそも創業すらできませんので。
ただし、一人で教えることのできる人数には限界があります。そこをどうするかが分かれ目です。もちろんそのまま一人で教えられる規模でとどまる場合も多いですね。むしろそのほうが正解かもしれません。
B:第二成長期
複数名の教師を雇い、複数教室を展開した段階です。5教室程度の規模なら、創業者のカリスマ教師が毎週巡回して教えることも可能ですが、教室数がそれ以上となると無理ですね。創業者と同等レベルのカリスマ教師を雇えばよいのでしょうが、世の中にはそんなにカリスマ教師はごろごろしていません。また、そういうレベルの教師なら人に仕える必要もないのですから、すぐに独立されてしまうでしょう。
この段階で、生徒が教師につくのではなく塾につくようにシステム化できるかどうかがポイントです。創立者のカリスマ教師が全面に出なくても経営が回るようにできるかどうかでしょう。
ほとんどの塾がこの段階で消えていきました。
C:第三成長期
教室規模が2桁以上となり、知名度も上がってきます。ここまでくれば安心といいたいところですが、そうはいきません。ここまで成長してくると、強力なライバルに周囲を取り囲まれるからです。まさにレッドオーシャンでの争いです。
同じことをしていては成長できません。現状維持にとどまると、合格実績がさがってきます。いったん合格実績が下がり始めると衰退とみなされ、生徒が離れていってしまいます。コストダウンをはかると有力な教師が離れていきます。教材開発やICTへの先行投資にはお金がかかります。
この段階を耐えきれずに、大手塾の傘下に入る塾もたくさんありました。
(3)衰退
永久に成長し続ける塾はまだありません。いつか必ずその時期が訪れます。塾にとって最大の難所は事業継承です。
20代~30代で創業したとして、30年~40年もすれば一線から退く時期がやってきます。その時にどう事業継承するかがポイントです。
一般企業であれば、息子(or娘)が後を継ぐというパターンを良く聞きますね。株式会社の社員であれば、ある種諦観して受け入れる他ありません。しかし、塾の教師は、専門性が高い職種です。いわば職人みたいなものですね。自分の腕一本で食べていける(と過信している)のです。癖のある教師をうまくまとめられるのは経営手腕をそうとう問われそうです。
ここで「安定」という時期はないのかというと、たぶんありません。弱肉強食の世界です。常に成長し続けないとならない業態であることは間違いありません。
同じテーマで異なる角度から記事を書いています。
【変革期】2010年代~20年代
変革期と名付けたのは、受験塾に求められるものが多様化してきたからです。
まず二つの大きな流れとして、個別指導塾の勃興と映像配信系(含む双方向)授業の拡大があげられます。
個別指導塾としては、明光義塾が早かったですね。1980年代に登場すると、1993年には500教室、2002年には1000教室、2011年には2000教室と、驚異的なスピードで教室を増やしました。もちろん自前出店であるはずもなく、フランチャイズスタイルです。
TOMASの経営母体であるリソー教育のスタートは1980年代ですが、TOMASブランドになったのは1997年です。毎年のように3~6校舎ペースで拡大し、現在は105校舎となっています。
映像配信については、小学生には基本的に難しい指導スタイルです。zoom等を使った双方向にしてみても、画面越しだと生徒の指導にかなり障壁となりますし、ましてや一方向のオンデマンドスタイルだと、定着が不安です。
やはり小学生は対面での指導でないと効果は薄いのですね。
そこで、集団指導塾をベースとして、そこに映像配信を加える、あるいは個別指導を加える、といったハイブリッドスタイルの学習スタイルをとる家庭も増えていると思います。
現在は難関校についてはSAPIX一強時代が続いています。しかしこのスタイルは、教室の面の展開が難しい問題もあります。優秀な生徒を育てるためには教師の力量も必要であり、そのレベルの教師をどれだけ確保できるのかが最大のポイントとなるからです。
サピックスから2013年にグノーブルが分離しました。TAPをサピックスが凌駕したような現象が起きるかと思われましたが、そんなこともなく現在に至ります。サピックスの校舎がある駅だけに14の教室を展開しているのは偶然ではないでしょうね。