語彙力は重要である。
常識ですね。
今回は中学受験で身につく語彙について考えてみます。
斎藤孝の著書
ちょうどよい文章をみつけたので紹介します。
教育学者斎藤孝氏の「日本語の技法 読む・書く・話す・聞くー4つの力」という本です。
斎藤孝氏の著作としては、「声に出して読みたい日本語」が有名ですね。
その他、「齋藤孝のイッキによめる! 名作選」シリーズも隠れたお薦めです。小学1年~6年生、そして中学生用とシリーズ化されています。
この年代に読んで欲しい文章を集めています。
例えば中学生用はこんなラインナップです。
●デューク 江國香織
●冷蔵庫との対話 作/アクセル=ハッケ 訳/諏訪 功
●夏が、空に、泳いで 古川日出男
●旅をする木 星野道夫
●蜜柑 芥川龍之介
●スパゲティーの年に 村上春樹
●汚れっちまった悲しみに……(他2編) 中原中也
●ウサギの日々 重松 清
●ラムネ氏のこと 坂口安吾
●江夏の21球 山際淳司
●貧の意地 太宰 治
●人間の土地 作/サン=テグジュペリ 訳/堀口大學
●硝子戸の中 夏目漱石
●名人伝 中島 敦
小学生だと少し難しいですね。
そういえば、名人伝は中学生の国語の教科書でも扱っていました。中2だったかな?
とある私立中学では、名人伝を授業で扱う際に、この話の元ネタとなった「列子」の漢文も合わせて読解していくそうです。
甘蠅古之善射者
彀弓而獣伏鳥下
飛衛学射於甘蠅
而巧過其師
紀昌学射於飛衛
衛曰、「爾先学不瞬、而後可言射。」
(以下略)
学年を超えて(無視して)こうした授業を自在にやるのが私立の授業の良い所ですね。理解力の高い生徒達を相手にして好きなように(そうではないかもしれませんが)授業ができる先生方が羨ましいです。
6年生用はこんなラインナップでした。
●草之丞の話 江國香織
●猫にかまけて 町田康
●ふわふわ 村上春樹
●リトル・トリー 作/フォレスト=カーター 訳/和田穹男
●自分の中に毒を持て 岡本太郎
●お父さんのバックドロップ 中島らも
●Sweet Basil 山田詠美
●竹取物語
●シャーロック=ホームズ/三人の大学生 作/コナン=ドイル 訳/日暮まさみち
●満願 太宰治
●首飾り 作/モーパッサン 訳/新庄嘉章
●高瀬舟 森鴎外
どれもよい本だと思います。
よく英語では「4技能」という言葉を使いますね。
Reading・・・読む
Listening・・・聞く
Speaking・・・話す
Writing・・・書く
この4つがバランスよく身につくことが大切とされています。
考えてみれば日本語も全く同じです。4技能が大切です。
この本の中で斉藤氏は「語彙が増えれば世界が広がる」と、語彙の重要性を論じています。
また、「話すように書く」ことより、「書くように話す」ことを推奨しています。これは深くうなずけることですね。
この本でも触れられていますが、日本語は「書き言葉」と「話し言葉」が異なる言語でした。書き言葉として、中国由来の漢字・漢文を自在に使いこなすことが教養人の証でもあり、仕事に必要なスキルであった時代が長く続きます。
ここで二人の文豪の文章を見てみましょう。
1862年生まれの森鴎外と、1867年生まれの夏目漱石です。
まさに明治を代表する文豪で、必読の作家です。
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
いいですねえ。格調高いですね。
しかし、漢文調が大好物の私ならともかく、子どもには読みにくくてしかたがないでしょう。
では夏目漱石の「こころ」の冒頭を見てみましょう。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
いきなり読みやすくなりました。
5年の年齢差だけでは説明できない変化です。
種明かしをしてしまうと、こんな事情です。
幕末から明治にかけての落語家「三遊亭 圓朝」が高座で語った話を、速記して文字起こししたものが明治初期に出版されました。それが、「言文一致運動」の坪内逍遥や二葉亭四迷に影響を与えました。夏目漱石も二葉亭四迷と同じく、新聞に小説を連載しています。当然「読みやすい」文章に磨きをかけたと思われます。
また、夏目漱石の落語好きは有名ですね。『三四郎』には、落語の名人だった三代目柳家小さんについて登場人物が褒めちぎる場面があります。また、「吾輩は猫である」をよく読むと、落語が元ネタとなったと思われる描写が見つかるのです。
たしかに当時の「話し言葉」の集大成であった落語が漱石に与えた影響は大きかったのでしょう。
こうして日本語の書き言葉と話し言葉は一致していくのですが、それでも昔日の慣習というか、影響は残ります。
現代でも、話し言葉のままに書かれた文章は、「読みやすい」けれど「幼稚」な印象を受けてしまうのです。
インプットがないとダメ
さて「書くように話す」といっても、「書く」ことができなければ実現できません。
そして「書く」ためには「読む」ことが大切なのはいうまでもないでしょう。
毎日欠かさず新聞を精読する習慣があれば、時事用語は普通に使いこなせると思います。今はどうかわかりませんが、昔は、企業の新入社員はとにかく毎日「日経新聞」を精読することを課せられたそうです。そうして社会人に必須の語彙と基礎知識をマスターしたのですね。また、古典に親しんでいれば、日本語の豊富な語彙が身に着くこともわかります。
逆に、インプットが「アニメ」や「漫画」「ゲーム」だけだったとしたらどうでしょう?
どんな話し方をするか、どのような文章を書くことになるのかは想像がつきますね。
私は一方的にアニメや漫画を否定するつもりはありません。私も親しんできました。(ただしゲームだけは完全否定派です)
私がとっている新聞に、著名人が日替わりで担当しているコラムがあります。著名人といっても、文章の専門家ではなく、タレントだったりアナウンサーだったりミュージシャンだったりします。そうした方が書く文章を読むと、「この人はこんなふざけたミュージシャンに見えるが、実に文章が上手い。きっと本を相当読んできているに違いない」と思える筆者と、「この人は芸能界で芸事だけをやってきたんだろう。なんて幼稚な小学生レベルの文章なんだ」と思う筆者もいます。
文書に教養が現れる。怖い話ですね。
私も気をつけねば。
実は、長年小学生に文章指導をしていると、「わかりやすい文章」を書く習慣が染みついてしまったのです。「わかりやすい」文章には、難しい語句は不要です。そのため、もしかして「幼稚な」文章し書けなくなっているような気がします。
今一度、森鴎外の熟読をすることにしましょう。
オリンピックの選手インタビューや実況中継を聞いていても、冷静に自己分析をしながら的確な表現で競技について語ることのできる人もいましたね。その一方、小学4年生で日本語能力の成長が止まったのかと思わせるような幼稚な話し方の人もいました。
アウトプットはまだ早い
記述力・表現力
どうも昨今の教育では、アウトプットを重視しすぎているように思います。
プレゼン型入試などその最たるものですね。
中高の授業でも、生徒にプレゼンをさせることを自慢している学校も多くあります。
しかし、中高生の間はインプットの時期だと思います。
この時期に十分なインプットがなければ、まともなアウトプットなどできないでしょう。
例えば、企業のプレゼンを例としてあげてみます。
何か新商品のプレゼンだったとしましょう。この商品の開発経緯・市場分析・魅力、そうしたことについての資料を、中学生と社会人、双方に同じものを渡します。
そのうえでプレゼンさせてみたらどうなるか、容易に想像がつきますね。
同じ情報からでも、それを説得力あるプレゼンにするためには、「説得力のある語彙」を使いこなす能力が必要です。また社会情勢についての常識や基礎教養も重要でしょう。
しかし、中学生にはそれらがありません。
見るも無残に幼稚なプレゼンになることは明らかです。
アウトプットよりもまずはインプットを。
まずは語彙力を磨くことを重視する必要があると思います。
語彙についてはこちらでも書きました。